【五月十九日の大被害 犠牲者三九一名】硫黄島に上陸した敵軍が同島に飛行基地を完成させたのもそのころで、五月十九日は曇った日だったが、これを裏書するように早朝から二百機の大編隊が襲来し、東部から西北部へかけて全市域五十八か町にわたり爆弾を投下、全壊九百七十五戸、全焼七百二戸、半壊千五百七十九戸、半焼五十五戸、死者三百九十一人、重軽傷者二百十九名を出した。砂山町の米穀配給所(五人死亡)・遠州病院も罹災した。市内の病院はまるで修羅場と化し足の踏み場もなかった。そして夜は雨が罹災地をぬらした。【動員生徒の犠牲】西遠女学校では四月三十日、五月十九日の両日にわたり動員生徒二十九名と引率職員一名が市内の河合楽器・鈴木織機で(学園誌『友情』六十周年記念特集号。三十四年五月同校校庭に慰霊碑が建立された)、また五月十九日には浜松商業学校で生徒十一名と教員一名が犠牲となった。五月二十四日ははじめての夜間攻撃で全焼二百四十三戸、死者二人、二十五日は広沢町・中沢町方面に、二十九日は海老塚町・浅田町・砂山町・追分町・上池川町・和地山町と全焼百四十三戸、死者一人を出した。飯田国民学校も全焼した。こうして五月だけで空襲は四回に及び、被弾地域も最初の馬込川以東の東部地域より駅南の南部地域の工場地帯へ移り、浜松駅を中心とした商店街から北部地域へ移動しつつあった(静岡新聞社『大空襲 郷土燃ゆ』。掛塚海上で撃墜された敵機の搭乗員六名が漁船に捕えられたのもこの頃であった『浜松憲兵隊長の手記』)。