六月の空襲

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 【疎開】このように空襲回数がふえ被害が増大してくると、すでに戦局が重大な段階に達していることが素人にも感じられ、老人や子供を縁故をたよって市外に移住させるものが日増しに増加してきた。荷車やリヤカーが重宝視され、馬力屋が繁盛した。六月に入ると空襲地域は市の中心部に移り、九日とつづいて十日には浜松駅は殆ど全焼し、構内では爆弾を満載した軍用貨車が炎上し浜松警防団によって消しとめられたが、被害は旭町・中沢町・元浜町・砂山町(死者六名、全壊全焼六八戸)に及んだ。【空襲下の生活】空襲の時刻の予想はできないので、男は国民服にゲートル、女子はもんぺの着のみ着のままの姿で、灯火管制でまっ暗な天井もとりはずされた部屋で救命袋を側らに、雨戸ははずしっ放しの仮り寝であった。しかも空襲となれば逃げまどうばかりで一矢も報いることができない。【敵機の宣伝ビラ】そんなある日、敵機が宣伝ビラを撒(ま)いた(市記録によれば合計八回であった)。その中には東京横浜が焦土となったことを報じ「荒廃した首都はもはや軍事目標でなくなった」などとあり、軍民離反をねらうビラであった。それを憲兵が廻ってきては回収した(神経過敏となった憲兵が市内のアメリカ人牧師や英学塾の教師を調べている『浜松憲兵隊長の手記』)。