ついに浜松が焦土と化する日がきた。六月十七日の夜もふけて、つけっ放しのラジオが突然に「敵機伊勢湾口を北上中」と報じ出した。十一時五十分過ぎである。すると、いきなり市の南西方面(鴨江町いなんば山方面より栄町・利町)に火の手があがった。空襲警報は出ていない(浜松市公式記録によれば、静岡県沿岸地区警戒警報発令は十八日の〇〇・四〇で、空襲警報発令は同日〇〇・五八で、同上解除は〇二・五一となっている)。まさに不意打ちである。それが最初で陸続とつづく敵機の大編隊(B29約五〇機)による焼夷弾の波状攻撃の繰り返しである。敵機は志摩半島付近で集結し白須賀上空から浜松へ侵入したとは後日分ったことであったが、浜松が今夜は目標となっていると気がついたときには全市火の海であった。防火は手後れで、一刻も早く安全な方面に逃げるより他はないと火炎(かえん)をくぐりぬけて出た路面は煙の渦で、見つけた防空壕はどこも満員であった。身をよせる家はなく、多数の市民は地獄の火の中を夜の明けるまで右往左往したのであった。火は十八日の未明鎮火した。燃えるところがなくなったための自然鎮火であった。夜が明けたが煤煙のため太陽は暗かった。見渡すかぎりの焦土には昨日まで立ち並んだ家々はなく、いたる所に余燼がくすぶり、こんなところにと思う空地や道路や溝に焼死体が横たわり、安全と信じて待避した防空壕からはガス中毒による遺体が多数発見され、なかには一家全滅という家もあり涙をさそった。焼けのこった広場という広場は重軽傷者の呻吟の声にあふれた。病院という病院はほとんど焼け、手当てを受けることができなかったからである。危く生きのびた人のなかには新川とか馬込川とか鴨江観音の池とか名も知らぬ溝川とか鉄橋や橋の下に飛びこんで命拾いした人もすくなくなかったという。離れ離れとなった家族の安否をたずねる人が往来し、遺体を発見しても棺も入手できず土葬のままで、供える花もなかった。【犠牲者一一五七名】市の中心部は灰燼とかわりこの日だけで死者千百五十七人(警防団員殉職七名に及んでいる)、全焼一万六千十一戸に達し、罹災者数約五万六千名、浜松市役所・市の枢要(すうよう)な機関をはじめ国宝建造物の五社神社・諏訪神社も焼失した(浜松空襲・戦災を記念する会発行の『浜松大空襲』には市民の空襲体験談が記載されている)。しかし公式発表は「マリヤナ基地の敵B29約八十機は本六月十八日零時四十分頃、志摩半島南岸より侵入(中略)浜松付近を約一時間にわたって焼夷弾攻撃を行いたるも二時過ぎ頃までに(中略)脱去」浜松市内各所には「火災が発生したるも概ね五時半頃までに鎮火せり」と報じたのみであった。米軍記録によると、この日の攻撃の出撃機数百三十九機で爆撃機は百三十機、全投弾量九百十二トンのうち焼夷弾は九百十一・七トン、米機の損失は皆無、日本機二機が迎撃した。浜松市街二・四四平方マイル、五十七・五%に破壊又は損傷を与えたとある(『東京大空襲・戦災誌第三巻』)。
浜松空襲の新聞記事
(表)浜松市主要罹災建物表
(昭和20年6月18日)
官公署 | 病院・その他 |
西遠地方事務所 | 県立浜松病院 |
浜松市役所 | 遠州病院 |
浜松裁判所 | 積善会 |
浜松刑務所 | その他罹災病院 64 |
浜松税務署 | 工場・事務所 |
浜松郵便局 | 日本無電会社浜松工場 |
浜松駅 | 東洋紡績会社浜松工場 |
浜松駅南口 | 日東航空工業会社浜松製作所 |
浜松国民勤労動員署 | 東京無線会社浜松工場 |
県浜松土木出張所 | 中島航空金属工業会社天竜製造所 |
専売局浜松出張所 | 日本形染会社工場 |
県食糧営団浜松出張所 | 浜松専売局支局 |
浜松憲兵分隊 | 松菱百貨店 |
浜松工業試験所 | 中部瓦斯株式会社 |
浜松図書館 | 社寺 |
学校 | 利町五社神社(国宝) |
浜松工業専門学校 | 利町諏訪神社(国宝) |
県立浜松工業学校 | 県居神社 |
県立第二工業学校 | 三組町秋葉神社 |
市立浜松高等女学校 | 元魚町松尾神社 |
私立誠心高等女学校 | 鴨江寺 |
女子商業学校 | 普済寺 |
元城国民学校 | 天林寺 |
南国民学校 | 西来院 |
西国民学校 | 玄忠寺 |
東国民学校 | 心造寺 |
県居国民学校 | 蓮華寺 |
北国民学校 | 法雲寺 |
八幡国民学校 | 教興寺 |
交通機関 | 本称寺 |
浜松鉄道株式会社 | 浄土寺 |
(東田町・田町・元城・普済寺口も焼失) | 菩提寺 |
大空襲時の浜松市域戦災図