【仮小屋 交通通信の杜絶 生活必需品の不足】焼跡へ踏み止どまる者も、しばらくは防空壕をわが家として暮してみたものの不自由には抗しがたく、防空壕から鍋釜布団(なべかまふとん)を取り出し焼残りの木材を組み立て焼けトタンを屋根代りとした掘建小屋を急設し雨露をしのいだが、飲用水は見当らず灯火もなかった。新聞をはじめラジオ・電話・郵便などが絶え、つんぼ桟敷(さじき)に置かれたも同様であった。貨幣があっても売ってくれる店もなければ商品もない。それに焼け跡の町は目標がなく歩いてもどこか見当がつかなかった。人々は空腹をみたすため農村へ赴いては買出しに狂奔した。昼間は蠅(はえ)の攻撃、疲れて帰ってくると夜は蚊の襲来で、雨が降ると雨漏りがした。
【食糧不足と減配】そのような日々の連続のところへ、七月から主食が減配され一日二合一勺の減配となった。それも雑穀(豆・もろこし)などが混り白米とは全く名のみで、塩の配給も杜絶してしまった。そればかりか一般物資の配給機構も乱れがちで、人々の苦しみはつのるばかりであった。
焼失した松菱デパート