七月一日は市制記念日であったが何の催しもなく、敵機P51の二十五機が市内を機銃掃射して廻った。このとき浜松基地の重爆撃機一機は引佐(いなさ)郡宮口上空で射落され乗員九名の戦死者を出した。七月九日は艦載機(かんさいき)が三方原飛行基地を、二十四日は早朝から艦載機約七十機が、高射砲隊(天竜川右岸中ノ町方面に布陣)の弾幕を通りぬけて高塚駅・遠州織機・鈴木織機・日蓄工場等の軍需工場を、二十五日も戦闘機二機が邀撃する中を十二機が侵入し天竜川鉄橋をねらい、東伊場町や砂山町方面の軍需工場に傍若無人の機銃掃射をくりかえした。二十八日には篠原国民学校が被弾し、敵機動部隊の接近を思わせた。そして二十九日はむし暑い日であった。めずらしく晴れた夜空に八時五十分ごろから敵小型機二機が浜松の上空で旋回を繰り返していたが、九時四十五分ごろに上池川町の上空と次いで天竜川右岸方面に照明弾(しょうめいだん)を投下して姿を消した。すると十一時二十分ごろすさまじい炸裂(さくれつ)音がはじまった。どこから来る敵弾か、敵機は見えないがものすごい爆風に樹木の枝が折れ飛ぶ、とびこんだ防空壕は爆音とともに揺れる。目をつぶり耳をふさいで人々は無言のまま時の過ぎるのを待つより他はなかった。