罹災学校

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 【御真影の奉護】空襲により各学校のもっとも苦慮したのは御真影の奉護であった。【奉安殿】各学校の特設防護団の任務も御真影の奉護に重点をおいたが、奉安殿(ほうあんでん)もいざとなると安全でなく、ついに昭和二十年六月八日興誠航空工業学校(興誠商業学校)の地下壕を市内各学校の合同奉安所として奉遷し、学校職員が輪番で奉護にあたった。空襲及び艦砲射撃による各校の被害状況及びその前後処置については、六六一・六六二頁の表を参照されたい(『浜松市記録』)。
 
(表)1.国民学校           × 廃校  ● 全焼
×●元城校6.18空襲で全焼,7.1分散授業開始(追分校・広沢校焼跡残存建物使用),11.1広沢校に合併し廃校となる
×●西校6.18全焼,7.1鴨江観音境内にて野外授業,9.20鴨江校と合併し,11.30廃校となる
×●南校2.15空襲で全焼,分散授業開始(鹿島神社・高砂校・龍禅寺校・県居校・西校・元城校借用)9.30高砂校に合併し,11.30廃校となる
×●東校6.18全焼,6.25授業開始するも登校児童は23名のみ,9.30八幡校に合併し,昭和21.1.30廃校となる
 ●県居校6.18全焼,7.3分散授業開始(鴨江校・賀茂神社・森田町倉庫・大厳寺),登校児童320名
 ●北校6.18全焼,信愛女子商業学校借用授業開始,その後中沢町染色工場を借用した。昭和21.6.18天皇陛下臨幸になり復興状況をご視察となった
相生校4.30空襲以後,旧校舎と新校舎を利用し授業した
龍禅寺校4.30被弾,5.18以降北寺島公会堂にて二部授業し,12.21復旧した
佐藤校4.30被弾し,校長高柳春吉は奉安殿前防空壕にて死亡した。以後残存校舎を修理し授業した
蒲校4.30被弾したが授業は続行した
高砂校4.30以降被弾したが応急修理し授業した
浅間校5.19被弾したが,光福寺・浅間神社・校庭で授業した
 ●八幡校8.1全焼,野口八幡宮・船越八柱神社・新津神明社・野口強心館・曳馬校・佐藤校・東部青年学校・日本形染工場・鈴木織機工場を借用して分散授業をした

 
(表)2.中等学校・その他             ● 全焼
浜松商業6.18全焼,野外授業したが終戦後元高射砲部隊へ,12より元陸軍飛行学校へ移転した
浜松工業6.18全焼,浜松機械工養成所・浜松第二中学・浅野重工業工場・西遠織布会社工場に分散授業し,12.14元百十三部隊へ移転した
浜松高女6.18記念館を残して全焼,休学として焼跡整理,9.11授業再開(追分校・城北校借用)
誠心高女4.30被弾したが残存校舎にて5.8より授業再開した
浜松一中7.29被弾,授業継続
信愛高女5.19及び7.29被弾,授業継続
浜松師範7.29被弾,授業継続
浜松高等工業浜松工業専門学校と称した。6.18全焼,富塚町寄宿舎に移り,終戦後元陸軍高射砲隊へ移転した

 
(表)3.青年学校・幼稚園
南部青年学校昭和20年1月に市内浅田町1044に開校予定で4月県居校舎を借用し開校したが同校焼失のため6.25より高砂校にて授業継続した
東部青年学校4.30被弾したが残存校舎にて授業継続した
備考1.元城幼稚園は4.30全焼し,8.31廃園となる。他の幼稚園も6.18全焼し,昭和20年当時は自然廃園の状態であった
2.浜松聾唖学校も6.18全焼した

備考 1.元城幼稚園は4.30全焼し,8.31廃園となる。他の幼稚園も6.18全焼し,昭和20年当時は自然廃園の状態であった
   2.浜松盲啞学校も6.18全焼した
 
(表)終戦時の市内国民学校状況
校名職員学級数児童数
元城24 6 338 
44 13 501 
西8 6 193 
26 24 62 
県居15 9 466 
相生23 18 838 
19 5 144 
龍禅寺19 12 619 
追分21 18 613 
佐藤21 12 385 
高砂18 12 215 
広沢14 12 374 
八幡35 26 784 
曳馬30 24 1,058 
萩丘11 5 403 
富塚21 16 694 
城北18 13 292 
白脇17 16 862 
17 16 704 
浅間12 8 386 
上島8 7 442 
鴨江15 12 189 
附属18 15 90 
456 309 10,652 

(昭和21年8月15日現在)