【豊川の女子挺身隊】浜松への空襲は八月一日が最後であったが、同月七日には愛知県豊川の海軍工廠が空襲を被り(爆死二四七七名、負傷者一万名を超えた)、浜松地方から出動の女子挺身隊員からも多数の死傷者を出した。かくて戦況は日増しに悪化するばかりであったが、市民は八月十四日になって、明日は正午に重大な放送があるとのラジオ報道を聞いて翌日を待った。翌十五日はよく聞きとれなかったがそれが戦争の終結を告げる天皇自身の放送(ポツダム宣言受諾の詔勅放送)であると気づいたとき、市民は無念の涙を流した。暑い日で焼あとには砂塵が舞っていた。なお、終戦の翌十六日に徹底的抗戦を叫んで三方原の飛行基地の有志軍人たちが決起した。これは海軍厚木航空隊の呼びかけにより、遠州北部の周智郡水窪(みさくぼ)の山中に陣地を構築し抗戦するという計画であった。しかし数日後には最初の六十名の半分足らずとなり、一週間もたたないうちに自然解散となった。しかし、この中には自決した将校(三組町・舘山寺にて二名)もあった(『浜松憲兵隊長の手記』。なおこの計画を説諭のため高松宮の来浜があったが一般には知らされなかった)。