市民の受けた犠牲もまた莫大であった。警戒警報三百四十回(昭和十九年六月十五日~二十年八月一日)、空襲警報七十六回に及び、前後二十七回におよぶ空襲のため旧市街の大部分は焼失し、罹災戸数三万一千戸、罹災人口十二万人に及んだ。【犠牲者二九四七人】これは当時の人口十八万七千人の六十四%、戸数三万四千戸の八十八%、面積四十七・三平方キロメートルの十五%にあたっており、死者二千九百四十七人、重軽傷者千七百二人のいたましい犠牲を出している(『浜松戦災復興誌』)。しかしこれは統計上のことで、後遺症や余病の併発のため亡くなった人数を加えると、じっさいの犠牲者はどれほどの数にのぼったか分らない。なかには一家全滅の家々も少なくなかった。しかもそれが何の抵抗力もない老人女子子供を含む市民への無差別爆撃によるものであったことを思うと、亡くなった方がたに対し万斛(ばんこく)の涙をそそいでも足らない思いで、如何に戦争とはいえこのような非人道的な残虐無比の行為が許されてよいものかと憤らずにいられない。現在住吉(すみよし)町の忠霊殿(昭和十七年陸軍墓地に建設)には戦没・戦災死者一万八百五十七柱が眠っている(浜松市資料によれば昭和二十二年七月の調査で戦没者三一四五柱、戦災死没者二七六八柱、海外引揚死没者三五〇柱、未帰還員約一五五〇人となっている)。
空襲と艦砲射撃を受けた浜松の中心部