[現代総説(上)]

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 「未来のことは分らない。しかし、我々には過去が希望を与えてくれるはずである」「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」、いずれもウインストン・チャーチルの名言である。我々が過去を振り返る意味は、混沌とした現実を読み解く鍵をそこから学びとろうとするため、また、不透明な未来を見定めようとするためであろう。
 現在わが国は大きな曲がり角に直面している。バブル崩壊以降の長期不況と経済のグローバル化の進展の中で、戦後作り上げてきた様々な仕組みや構造が制度疲労を起こし閉塞感を生み出している。いま問われている仕組み・制度・構造は戦後の占領政策や戦後改革によって基本的に生み出されたものである。従って、戦後の復興期をどのように評価するかは極めて重要な今日的課題である。近年多くの研究が示すように、戦前・戦中と戦後を、戦争を挟んで「切断」してしまうのではなく、「連続性」として把握することも必要である。その際、戦前の何が継承され、何が切断されたのか、つまり、敗戦を境にして「何が変わり、何が変わらなかったのか」という視点で戦後復興期を評価する必要があろう。戦後改革によって政治・経済・教育・社会・文化・地域体制などあらゆる領域で「何が変わり、何が変わらなかったのか」といった視点から検証する必要がある。
 このような視点から、浜松の産業構造の変化を例にとって、その「連続性」と「断絶性」をとらえてみよう。
 戦後実施された財閥解体や集中排除、農地改革、労働組合の法的公認などの経済民主化政策は、戦後の復興を早める主な要因となった。これらの政策は、大企業間の競争激化による設備投資競争を誘発し、農民や労働者の地位の向上は所得や消費を上昇させ国内市場の拡大を生み、復興を早める効果として表れた。浜松も戦災により甚大な被害を受けたにもかかわらず、比較的早く復興を成し遂げた背景には、経済民主化政策による制度改革の効果があったと言えよう。明治以降、一地方工業都市でありながら質量ともに充実した工業集積を形成してきた浜松は戦時経済下において一時的に軍需産業へ傾斜した。この軍需生産は一時的に需要を喚起するものの、地域産業全体の生産力の拡大にはつながらなかった。そのため軍需生産を拡大すれば消費財や投資財の生産は圧縮される。全国有数の綿織物産地を形成してきた地域産業はその生産を縮小せざるを得なかったのである。にもかかわらず繊維産業や楽器産業が、戦後いち早く復興するとともに、オートバイ工業という新しい産業を生み出し、軍需産業から平和産業への移行を果たしたのはなぜか。繊維産業や楽器産業は、戦災により大きな打撃を受けながらも、生き残った生産設備や生産技術を土台にして再生した。戦後新たに誕生したオートバイ工業は、戦前から蓄積されてきた工作機械工業や繊維機械工業といった先行産業と軍需品の製造において学んだ生産技術を土台に生まれてきた。また、軍需産業は、戦後一挙に崩壊したものの、そこからミシン工業や金属加工業が誕生した。つまり、戦後の地域産業は戦前・戦中から蓄積されてきた先行産業の生産設備・生産技術・ノウハウなどが土台となって再生し、産業都市・浜松を復活させることが出来たのである。そこには、戦前からの構造的連続性があったことを否定できない。
 他方、生産方法においては戦前と戦後には大きな断絶があった。戦後の地域産業を主導した楽器産業や輸送機械工業は大量生産方式を導入し低価格量産化(スケールメリットの追求)を志向していった。その契機となったのが、昭和二十年代後半、地域の主だった企業(今のヤマハ、スズキ、ホンダなど)の経営者による欧米への視察旅行であった。この大量生産方式とは、作業を単純な工程に細分化し、この工程を機械体系によって、より早くより正確に消化する半自動的生産ラインを構築する方法である。これにより、地域の産業構造は一部の完成品メーカーと多数の中小零細部品メーカーに再編され、組織化されていった。浜松は加工組立工業都市として成長していったのである。この低価格量産化は、固定相場制や変動相場制での円安傾向の下、地域産業を発展させ成長させる要因となった。しかし、その後(昭和六十年以降)の急激な円高と経済のグローバル化の進展の下で地域産業は、国際市場での激しい価格競争にさらされ、国内での低価格量産化志向そのものが行き詰まっていった。地域経済は外国為替相場の変動に振り回され、また、生産拠点を新興工業国へ移す企業も増え、地域産業の空洞化も進み始めた。地域の利益と企業の利益が必ずしも結び付かなくなってきているのが現状である。つまり、戦後の地域産業を発展させてきた要因(低価格量産化)そのものが、発展の阻害要因になってきている事実を、我々は歴史から学ぶことが出来る。
 次に、敗戦・占領・復興という歴史的変化の中で、浜松市民がそれにどう対応し、かつ新たなものを生み出していったかを、『浜松市史』四を構成する各分野にわたって見ることにしよう。
 
 政治・行政の領域においては日本国憲法や地方自治法が制定され、戦後の政治の在り方を根本的に変革させた。いわゆる「民主政治の実現」である。浜松市の戦後復興や市発展の土台づくりは藤岡・坂田・岩崎市長等の手によって行われた。戦災で甚大な被害を受け、多くの市民が衣食住で深刻な生活を余儀なくされたなか、藤岡市政の下、戦災から立ち直る応急対策事業が開始された。行政機関の復興を手始めに、国に戦災都市の指定を強力に働きかけるとともに、戦災地浜松の復興計画を立ち上げた。さらに、公職追放や町内会の解散、そして婦人参政権が実現した国・地方の各種選挙が実施されて、軍国主義政治から脱却して、いわゆる「民主主義政治」へ移行していった。
 昭和二十二年、戦後初の選挙で誕生した坂田市長は、四年間にわたる施政で、住宅建設・都市計画の推進、学校・文化・スポーツ施設の整備、工場誘致、財政の充実、町村合併、国鉄電化の推進、行政改革、『浜松市報』の発行、浜松こども博覧会の開催など、数々の施策で市の復興と市民生活の安定を図った。坂田市政から引き継いだ岩崎市長は二期八年にわたって市政を担った。この中で、教育委員会の発足、『広報はままつ』の刊行、新市庁舎の完成、日本都市学会による浜松市総合調査、浜松城の再建、町を住みよくする運動など、多くの事業が実施された。他方では、都市計画事業に対する反対運動やオートレース場設置に対する反対運動も起きてきた。町村合併については、坂田市政時代に三村の合併、岩崎市政下では町村合併促進法の施行もあって周辺十二カ町村の合併が実現した。
 
 軍事・警察・消防の領域では、軍隊は解体され、軍用地の多くが解放され、農地・工業用地・学校用地などとして活用された。また、警察や消防も自治体警察・自治体消防として再編されていった。一方、医療・厚生に関しての占領改革は公衆衛生福祉局が発した「公衆衛生対策に関する覚書」に始まった。とりわけ市民生活に密着した予防と治療に関する諸相のうち、戦前以来のトラホームと結核、あるいは法定伝染病対策が行政の緊急課題であった。また、国の医療制度の整備に対応して病院等の拡充が図られ、アメリカの影響を受けた治療技術の革新が進んでいった。
 
 次に、教育の分野において民主化教育がどのように進められていったかを見ることにしよう。GHQによる民主化政策の重要な柱の一つが学校教育の民主化であった。これまでの教育勅語という国民教育の絶対的な基準が否定され、米国教育使節団の報告書や日本の教育刷新委員会の建議など、民主主義的教育の基本的事項が固まり、それが教育基本法・学校教育法に生かされ、戦後の新教育が始まった。ただ、浜松は戦災で多くの学校が焼失したため、初期はこれらの復興や新制中学校の建設に力が注がれた。教育方針の大転換により、様々な批判が出る一方、多くの人たちの努力により新教育は着実に進展していったのである。昭和二十七年の独立を機に、これまでの行き過ぎた面を改めようとする動きも表面化し、特に昭和三十年以降になると民主化教育はやや変質し、より中央集権的仕組み(教育委員の任命制、教員勤務評定の導入など)に変わっていた。
 
 次に、産業・経済の分野について見よう。この時期、空襲や艦砲射撃によって壊滅的打撃を受けた地域産業は、軍需産業から平和産業への移行を果たし、さらに新たなる成長を達成するための基盤が整備されていった。浜松の産業発展の特質には、既存の工業が時代の変化とともに、新たな工業を生み出し、継続的に発展するというダイナミズムが存在する。この特質は、戦後の地域産業の発展・成長においても貫かれ、浜松工業の自己増殖力の強さを証明した。遠州綿織物産地を確立してきた繊維産業は、戦後の物不足の中でいち早く復興し、地域内における社会的分業を拡大していった。楽器産業も、経済の安定化とともに、ヤマハ、カワイの二大メーカーを軸に多数の中小楽器メーカーを生み出していった。一方、戦後新たに成立したオートバイ産業は、繊維機械工業や工作機械工業などの先行産業の中から生み出され、多数の完成品メーカーを誕生させた。これらの産業は、「地域の三大産業」(繊維・楽器・オートバイ)として、戦後の産業構造を特徴付けた。特に、戦後の地域産業を主導していった楽器産業・輸送機械工業は低価格量産化を志向し、多数の部品メーカーを組織化していった。これにより地方工業都市・浜松は、戦時中の軍需産業都市から加工組立工業都市へ変貌していったのである。
 他方、農業分野では戦後農業の基本的枠組みが整備された。戦後の緊急開拓事業と軍用地の解放などによって農用地の拡大が図られ、農地改革によって、戦前の地主・小作関係が解体され、大量の自作農を創出した。しかし、これらの政策は一農家当たりの経営規模の拡大には、必ずしもつながらなかった。また、浜名用水事業(戦前からの継続事業)、三方原への揚水事業、土地改良事業などの基盤整備が次々に行われ、後に全国有数の都市近郊農業を発展させる基礎がつくられていった時期でもあった。
 
 次に、交通・通信の分野でどのような復興が進められたかを見ることにしよう。戦災により浜松の交通・通信網もまた壊滅的な打撃を被った。これら交通・通信網の復興は、終戦直後から精力的に開始された。言うまでもなく交通・通信は、社会資本であり、市民の社会生活、経済活動の基盤をなしており、戦後復興のカギを握っていたといっても過言ではなかった。
 浜松の旅客・貨物の玄関口である浜松駅は、駅舎・プラットホームをはじめとする諸施設がほぼ焼失・破壊されたため、ふくれあがった一般乗客と復員・引揚者の受け入れと物流拠点としての役割を、応急のバラック駅舎で対応せざるを得なかった。浜松駅の戦後の本格的な復興は、昭和二十三年十月、待望の新駅舎の完成と翌年の東京─浜松間の電化完成とともに始まった。この電化完成を祝う電化祭は新たな浜松まつり誕生のきっかけとなった。
 浜松市内の交通機関として重要な役割を果たしてきた、遠州鉄道や市営バスなども、終戦後の混乱や厳しい経営環境のなかで公共交通機関としての責務を果たし、復興を遂げていった。遠州鉄道二俣電車線は、昭和二十二年六月に旭町─遠州浜松間を復旧して全線運行を実現し、以後、奥山線とともに近代化を進めて輸送力の増強を図った。バスもまた市域の拡大と利用者の増加に合わせて路線を拡大するとともに、観光バス事業を強化した。
 瓦礫(がれき)と爆弾の穴で通行困難だった市内の道路も、戦災復興事業としての街路計画により道路拡幅・舗装等が進められていった。ただ周辺町村との合併や急速な商業の発展や自動車交通量の増加もあって、国道や市役所周辺を除くと工事の進み具合は遅々としたものであった。また、こうした事情を背景として市内の交通事故件数は増勢の一途をたどり、交通取り締まりの強化や交通標識・信号機の設置などが求められた。
 戦災で焼失した浜松郵便局の木造の新局舎が完成したのは、昭和二十二年三月のことであった。三十四年三月には鉄筋コンクリートの新局舎が完成した。また昭和二十五年、市内の電話加入者が戦前のピークを上回った。経済活動の活発化に伴い電話利用者が急増し、電話局は回線数の増加に追われた。このため昭和三十年代に入ると、電話の自動化と新局舎の建設が強力に進められていった。
 
 次に、終戦を境に地域社会がどのように変化していったかを見ることにしよう。この時期の浜松の特色を、主に生活再建・生活改善において創意ある活動を探ってみよう。焦土での貧困のどん底から立ち上がった浜松市民は、衣食住の最低限の生活から、各自がそれぞれの生活の場で創意工夫をして徐々に落ち着いた生活を築き上げていった。千円住宅や二千六百円住宅という小規模な仮設住宅を建て、配給だけでは足りない食料や生活必需品を近郊農村への買い出しややみ市で確保しつつ、復興に励んだ。急激な物価上昇に対抗し、多くの職場で労働組合が組織され労働条件改善の闘争が繰り広げられていった。また、食糧難が最も深刻であった昭和二十二年、市民は県下で戦後初の米よこせ大会を開催した。一方、衣類が食糧買い出し代金となっていったこの時期、浜松では、東京よりも早くファッションショーを開催している。また、昭和二十六年には国鉄浜松工機部の公舎に住む主婦たちが家族組合という日本初の労組補助組合を立ち上げ、そこでは婦人の地位向上と家族生活の改善も目標とされていた。また、戦争未亡人たちは浜松市母子の会を立ち上げ、幼稚園やパン工場の経営、洋裁・編物等の技術指導所を建設、当時これらは全国でもまれなものとして注目を浴びた。このような市民の創意による経営感覚を併せ持った生活再建のための運動は、地域や職場で新たな公共性と連帯をはぐくむものであった。
 朝鮮特需を契機に、復興が急速に進み、人々は消費生活の向上に徐々に目を向け始める。浜松の婦人会や青年団は、戦前の組織名を変えて再建され、このうち婦人会は冠婚葬祭の簡素化など、生活改善のための様々な活動を行っていた。昭和二十七年から新生活運動が全国的に開始されると、浜松市でも浜松市婦人連盟がこの運動に着手した。この運動の「申合せ」の文書には、「主婦の時間を生み出しませう」といった文言もあった。戦前の生活改善運動は経費削減目的のための手段であったが、戦後の運動では生活それ自体を改善していこうとするものであった。浜松市では市婦人連盟理事の一人が衣料メーカー社長の夫人であったこともあって、画期的な婦人会服を作製したが、これが衣服の簡素化の一環ともなり、全国の婦人会員に普及する大ヒット商品を生み出していった。あらゆる場面に商機を見つけ出し、それを逃さない浜松の地域性が垣間見られるものであった。
 
 宗教の分野では進駐してきたGHQによって、戦前からの精神的支柱であった国家神道が徹底的に排除された(神道指令)。この影響下にあったと認定された政治・宗教・芸能・教育・スポーツなど組織・団体に対して、徹底して細部に踏み込んだ指令・勧告がなされた。他方では、抑圧されてきた信教の自由は回復し、新憲法下では、宗教法人として自立するに至るのである。反面、市民生活の日常には戦前以来の習俗・慣習になじむものもあり、政教分離を貫徹し得ない局面も生じている。また、戦後の荒廃した市民生活の中にも、倫理を求める人々の営みがあり、わけても戦時中の抑圧から解放された浜松高等工業学校の学生の姿は痛々しくもすがすがしい。同校の教授・桜場周吉が期待する「知性、行動性、社会性」に呼応して、向学の志と普遍的な自由を希求するエッセイは珠玉と言える。
 
 文化活動においても、その立ち直りの早さと姿勢のしたたかさに驚くとともに感動を覚えずにはいられない。まず幾つかの文芸誌や総合誌など雑誌の刊行があり、郷土紙の発行が見られた。先進的な発想に基づき市立図書館が再建されたことも大きな支えとなった。こうした状況の中で、文学・美術・音楽などの分野において個性的な芸術家の活躍が見られ、一方では伝統工芸・伝統芸能の復活が見られた。娯楽の方面では映画が大人気、素人による演劇が盛んでラジオが重要な位置を占めているなど現在とはかなり異なる状況が見られる。浜松地方は戦前から郷土研究が盛んでレベルが高かったが、この分野での活動の復活は早く、かつ内容的にも充実している。また、戦後の日本の文化活動の特徴の一つは、国際関係の重視であるが、当地方でもユネスコ活動・ロータリー活動が復活し、ライオンズクラブも誕生している。
 
 以上見てきたように戦後復興期において、困難に立ち向かう浜松市民の力強さを、政治活動・経済活動・文化活動など、様々な分野において見ることが出来る。もちろん、その背景には戦時体制の下で窮乏生活を強いられてきた市民が、戦争終結によって得られた解放感とGHQの民主化政策による労働者・農民・女性などの地位の向上があったことは否定できない。にもかかわらず、時代の変化に対応しつつ、そこから新しいものを生み出していく浜松市民のエネルギーや自己増殖力を強く感じざるを得ない。既刊の『浜松市史』三の「近代総説」においても浜松人の住民気質を「積極・進取・活気・新奇・実利」と指摘している。これが浜松市民のリージョナル・アイデンティティなのかもしれない。