[甚大な戦災被害]

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【戦災被害】
 浜松市は太平洋戦争の末期に、艦砲射撃を含め二十七回に及ぶ空襲で旧市街地の大半を焼失した。昭和六十一年(一九八六)三月に浜松市都市計画公園部が発行した『浜松戦災復興誌』によれば、これらの空襲による死者は二千九百四十七人、重軽傷者千七百二人の痛ましい犠牲者を出し、被災人口は当時の人口(昭和十九年の人口十八万七千四百三十三人)の六十四%に当たる十二万人、被災戸数は当時の戸数の九十二%に当たる三万一千戸に上ったという。この数値は浜松市役所の調査によるもので、浜松警察署の別の調査によると死者三千二百三十九人、重軽傷者二千九百十二人であったと記されている。実際の犠牲者はどれほどの数に上ったか正確には計り知れないが、死者は優に三千人を超えたことは確かであろう。こうして、多くの犠牲者や戦災で家を失ったり、戦禍を避けて疎開した人々が続出し、終戦直後の昭和二十年九月には、浜松市の人口は六万九千二百九十八人にまで減少していたという(『浜松市史三』第五章太平洋戦争と浜松)。
 これほどまでの激しい空襲を受けた大きな理由の一つに、浜松市が旧日本軍の航空基地や高射砲連隊(千葉陸軍高射学校浜松分教所)が置かれた軍都であり、航空機関係の軍施設、工場が多く、空襲の目標とされたことがある。
 
【カーチス・ルメイ】
 また、太平洋に面した遠州灘の浜松市域が米軍が本土爆撃をする際の爆撃目標地への進入路上に位置していたことも、理由の一つとして挙げられている。爆撃に向かった米軍機の操縦技術の未熟、機械の故障、さらに偏西風のため飛行コースを外れてしまったりして、目標地にたどり着けなかったB29が、最終目標として、あるいは臨機の目標として浜松を爆撃したり、名古屋などの空襲を終えサイパン島などの基地に帰還する爆撃機が不用になった爆弾を経路途中の浜松に投下して行ったというものである。これについて、第二次世界大戦中、第二十・二十一爆撃機集団司令官として対日戦略爆撃の指揮をとったカーチス・ルメイは自伝の中で、「繰り返し攻撃したので、B29の搭乗員にとっては、浜松は月ごとに〝住みなれた町〟となった。だれでも、その地区に行ってトラブルを経験したならば、たとえば、パイロットが発動機の調子がよくないことを発見するとか、指示された最初の目標に向けて飛行を続けることができない他の機構上の問題にぶつかったならば、われわれの搭乗員は、装備している爆弾を浜松に投下するように教えられていた。ところで、B29の行動には非常に多くの失敗があったので、浜松はものすごく大量の爆弾を吸収する結果となった。」と述べている(「無差別絨緞(じゅうたん)爆撃への道―『ルメイ自伝』より―」『東京大空襲・戦災誌』第4巻 東京空襲を記録する会)。
 
【米軍の不用爆弾のゴミ捨て場】
 こうした爆撃の結果を、カーチス・ルメイは同じ自伝の中で、「浜松は、爆弾を始末する〝ゴミため〟も同然であった。」と発言している。日本では戦後、この言葉が米軍の内幕として報じられると、横浜や名古屋に比して小都市にもかかわらず、二十数度にも及んだ空襲の原因が米軍の不用爆弾のゴミ捨て場であったためと喧伝されるようになった。
 カーチス・ルメイは、米海軍第三艦隊の浜松艦砲射撃の計画に際して、「…弾薬を浪費しないように海軍側に言ったほうがいいぞ。ケチな浜松を砲撃しても、役に立たないよ。浜松はすでに破壊されている」と同じ自伝の後半で言っている。これは、米国海軍が計画した「すでに破壊されている浜松」への艦砲射撃の無意味さを言い、砲撃を思い止まらせようとして述べたものと解すべきであろう。B29の浜松爆撃で自己が挙げた成果(戦果)が、海軍の艦砲射撃により薄められてしまうと考えたルメイの発言であった。
 先述のように、米軍の爆撃は、最終目標として浜松に爆弾を投下することが戦略的に決められていたものである。ただ不用爆弾は、燃料切れなどに伴い海上投棄されたり、持ち帰ることが出来る場合は、マリアナ諸島まで持ち帰ったこともあったことが、爆撃部隊の報告書に記されている。