敗戦後十四日目の昭和二十年八月二十九日に緊急戦災復興対策懇談会が、商工経済会浜松支部と浜松警察署の主催により鴨江町の浜松警察署で開催された。参集したのは藤岡浜松市長、上原憲兵分隊長、中西地方事務所長、藤山浜松駅長をはじめ、交通・運輸、電力・電灯ならびに各関係会社関係者、各団体関係者で、戦災地の清掃や焼失した家屋の建設などを中心に戦災復興全般について話し合いが持たれた。当日決定した復興事業の具体的な内容は不明だが、これ以後の新聞などを見ると、戦災地の片付けや清掃、電灯・電話・水道の復旧、応急住宅の建設などであったと思われる。
【浜松市復興計画案】
浜松市の復興について深く考えていたのは静岡県会議員兼浜松市会議員の岩崎豊(後の浜松市長)であった。彼は浜松市の復興は市役所の一部の役人にのみ委ねるべきではないとし、浜松市と協議を重ねて浜松市復興計画案を作成し、全市民の意向を尋ね、復興関係者の参考に資したのであった。この復興計画案は同年九月十六日付の『静岡新聞』に大きく掲載された。それによると浜松市の戦災全地区を一括して宅地整理組合を設立し、その地区内に理想的な都市を建設しようとするものであった。初めに交通機関の復元強化を提案しているが、これは国鉄浜松駅の移転や遠鉄電車の浜松駅乗り入れ、浜松鉄道の拡幅と浜松駅乗り入れ、トラック・バスの運営合理化を意味していた。次に馬込川上流より分水して市内を貫流する清掃用水路(小船による輸送が出来れば理想)の建設、下水道の敷設、公園・緑地帯の設置、道路網の整備(屈曲及び丁字型道路の廃止など)、電灯線・電話線・ガス管などの地下埋設を考えている。三つ目には軍隊の用地や建物の払い下げを願い、国民学校・中学校・医専(医学専門学校)などの教育機関とすること、市民病院や市役所の土地の確保、運河計画などを挙げている。これらの復興計画においては、焼失全地区総坪数より公共用土地総坪数を控除し、差引き残存坪数を土地所有歩合に応じて還元する方策を提言している。
この計画案に示された医専の新設、運河計画の確立、下水道の整備、公園・緑地の設置、道路網の整備等は先見性に富んだ都市計画の一端であり、これらの一部のものは実現して今日に至っている。