【厚生省型仮設住宅 藤岡市長の奏上文】
敗戦後、多くの国民はその日の生活にも事欠くようになっていた。特に戦災を被った人々にとっては衣食住の確保は切実なものであった。静岡県による戦災者への住宅建設の打合せ会が開かれたのは敗戦の日から十二日後の昭和二十年八月二十七日のことであった。この時点で決まったことは、静岡・浜松・沼津・清水の各戦災都市に一戸当たり五坪、建設費六百円の庶民住宅を二千戸つくるというもので、浜松は七百戸と決まった。これは九月に入って多少の修正をされ、九月二日付の『中部日本新聞』によると、「七坪建で至極お手軽 値段は一戸一千円 浜松の復興住宅受付」の見出しの下、「浜松市では戦災者のため焼跡地帯へ簡易住宅を設けて復興を援けることになり、第一回分として一千戸を限度としそれぞれ町内会を経由させ建設希望者の申込みに応じてゐる」と報じ、建物の概要や特色などを記している。九月上旬には栄町通りに簡易住宅の見本が展示され、九月十三日付の同新聞には、この〝復興簡易住宅〟には六百戸以上の申し込みがあったことと、「焼跡へ早くも次々と建られてをり新事態下へ再出発する逞しい浜松つ子の意気が盛り上がつてゐる」とある。九月下旬になると、県の斡旋に基づいて浜松市に厚生省型の仮設住宅三千戸を十月中旬から建設を開始することが決まった。ただ、これらの住宅の建設は資材不足と食糧不足による人手不足で大幅に遅れた。昭和二十年十二月二十八日現在、厚生省型の仮設住宅は年内に三千戸を予定していたが九百戸が完成したのみで、欠陥住宅のため入居者は一割程度ということで、議会からは市首脳部の責任を問う声が上がったほどであった。これらの住宅は浜松市が建設するものではなく、県の方針に基づいて住宅営団と契約した下請け工事人が施工するもので、市には具体的な政策がなかったのである。ただ、翌年一月十八日付の『静岡新聞』には「…一般自由建築はどこから集めるのか相当豊富な資材と労力をもつて諸所に建築が進められ過去五十日間に約一千戸に達する大小住宅が建てられた」とあり、一部市民の復興意欲の旺盛さを伝えている。その後、次々に住宅の建設は進み、浜松大空襲一周年の昭和二十一年六月十八日の昭和天皇の浜松行幸に際して藤岡兵一市長は浜松市の復興について次のように奏上している。
「本市の復興に就きましては新らしく臨時建設部を置き復興委員会を設けて鋭意努力中でありまして住宅につきましては約六千五百戸の新築又は改築が出来まして被害を免れたる一万二千余戸を合せまして現在約一万九千戸に達しました 戦災前の三万四千戸に対し約六割を算するに至りました 人口は戦災前十八万七千でありまして終戦時には八万一千に減少して居りましたが其の後復興と共に増加し四月二十六日の人口調査の結果は十万一千余名と相成り増加の一途を示して居ります」
【公営住宅】
その後、昭和二十一年度からは浜松市と住宅営団による公営住宅の建設が始まるが、特に和地山町には陸軍用地の払い下げを受けて、同二十三年度までに二百七十二戸の公営住宅が建てられた。