【供出 粉食 遅配 食糧営団 米よこせ大会】
敗戦後の食糧事情はこの年の水稲の減収などにより深刻な状況となった。県や市町村は米や甘藷、雑穀などの供出割当量を確保すべく供出委員を選任して割当の適性化と供出の完遂を要望した。昭和二十年十一月十三日付の『静岡新聞』には郡市別の食糧の供出量が記されている。見出しには「供出割当量絶対確保 無理は承知だが餓死から救ふ道だ 県民のためどうぞ完遂してくれ」とある。県の金子経済第一部長の談話には、「…これ(供出の完遂)が出来なければ同胞が飢ゆるのである、戦争中にもまして供出意欲を昂揚しなければならない」とある。米の不足により甘藷は主要食糧となり、供出の完遂が呼び掛けられたが、都市部の住民の買い出しが激増したため、その量は少なかった。当時の人々の主食は米と麦で、昭和二十年十二月の『静岡新聞』の調べでは県民の圧倒的多数が一人当たり一日三合の配給を望んでいた。しかし、翌年の三月になると、食糧危機突破のため、粉食(パン、乾パン、めん類など)化を急ぎ、さらに可食未利用食糧資源(甘藷の茎葉、どんぐり、雑海藻、みかんの皮、大根の葉など)の供出も奨励するようになった。昭和二十一年五月下旬の『静岡新聞』には今後の食糧の見通しが食糧営団浜松出張所の話として掲載されている。同営団の説明は「米の配給は六月まで続ける、七月から十月までの端境期には麦と馬鈴薯と粉食だけで我慢しなければならぬ、営団としては今のうちになるべく米の配給量を減らして、出来るだけ沢山の代替へ食糧を配給したいと苦心してゐる」とある。六月下旬になると浜松の営団手持ち米は二日分を割るまでになった。新聞の見出しには「来たぞ食飢」とあるが、七月に入ってアメリカからの小麦三百五十トン(十日分)が浜松に到着、「戦災後始め□□(て蓄カ)える一粒の米もない市民はどつと歓声を上げた」と新聞は伝えている。浜松市においても食糧の自給を市民に呼び掛け始めた。同年四月には自家菜園用の蔬菜苗の配布、五月には農業増産講習会の開催、七月にはパン製造講習会の開催、十二月には進駐軍からの乾パン配給など様々な取り組みをしている。市民の多くは配給の食糧だけでは足りないため、やみ市で求めることもあったが、あまりにも高価なため、直接農村まで出向いて求める買い出しに走った。ただ、これは法令違反となるためせっかく求めた食糧を汽車の中で警察官に没収されるということが少なからず起こった。主食以外にも浜松市は市民のために薪炭や味噌、醤油などの移入に努めていた。昭和二十一年六月に長野・岐阜の両県から数十万俵の木炭を移入することにしたが、多額の資金を投じて見返り品を先方に送っていた。これらの物資は統制組合を通るためそのすべてが浜松市に来るのではなく、浜松警察署管内の一市二十九町村に割り当てられた。結局、浜松市はこれら他町村の分まで経費を負担していたのである。これについて市当局は、決して恩を着せるのではないが、この返礼として町村の農民は市民に気前よく農作物を提供してほしいと述べている(『静岡新聞』昭和二十一年六月十四日付)。昭和二十一年十月十一日の『静岡新聞』には「銀の新米 目に涙、二ヶ月ぶりで主婦の手へ」の見出しの下、詳細な記事がある。米や麦などの主食以外にも魚や蔬菜も正規のルートでは出回らなくなった。その原因の一つは大口の買い出しがあったからだという。このようなわけで、主食の配給が始まったものの、同年十一月四日の『静岡新聞』は「副食の配給杜絶 ちかごろ苦しい浜松市民」の見出しで実態を述べている。一時は食糧危機が去ったかに見えたが、昭和二十二年の五月下旬になると浜松でも主食の遅配が続出するようになった。当時浜松の遅配状況は十日前後、このうち最もひどかったのは砂山町配給所管内で、同町公会堂には六月三日午前各町内会代表約三十人が集まり、一日も早く遅配を解消せよと食糧営団浜松出張所に説明を求めた。『静岡新聞』は県下初めての米よこせ大会として、これを詳しく伝えた。この対策として、グリンピース、押麦、コーリャン(もろこし)なども配っているとある。なお、昭和二十一年の食糧危機突破に大きく貢献した進駐軍の厚意による輸入食糧の状況については『浜松市戦災史資料』三に詳しく出ている。このような食糧危機は昭和二十三年ごろまで続き、幾分余裕が見られるようになったのは昭和二十四年以降であった。
昭和十九年(一九四四)七月にマリアナ諸島のサイパン島が米軍の手に陥ると、米軍はここを基地として日本本土への空襲を開始した。浜松への初空襲は同年の十二月中旬、これを契機に浜松市民は空襲を避けて市内周辺部や他郡市に親戚や知人を頼って疎開するようになった。特に翌年四月から大規模な空襲が始まるとその数は増加した。
【疎開者】
疎開先での疎開者の生活は空襲からは直接逃れたものの、決して安心できるものではなかった。農村と都市の生活観が異なる上に、食べ物に事欠き、なけなしの身の回りの品と食べ物との交換に頭を下げて農家を回ったという。市内で教員を務めていた鈴木良は六月十八日の浜松大空襲で罹災してから磐田郡光明村山東に疎開していた。終戦後の八月二十一日の彼の日記は「戦災者は農山村に来りて何を受けたか」(『新編史料編五』 七社会 史料1)と題し、「一つの南瓜、一本の歯磨ヨージを求めんとすれば、彼等はその代りに物を求めた。一切を焼失した戦災者に対して金銭以外の物を強要せずには一物をも渡さうとはしなかつた。…」と記している。彼が焼け跡のわずか二間の小屋同然の家に戻ったのは昭和二十一年二月十一日であった。
【引揚者 浜松市案内所 浜松 農業訓練所】
『浜松市戦災史資料』三によれば、終戦後一カ月半を経過しても、住宅の復興が出来なかったり、罹災していなくても浜松では生活が成り立たないとして、周辺部や他郡市に疎開を続けている者が多かったことが分かる。浜松市民で浜名・引佐両郡の町村に疎開していた数は、戦災罹災者が五千五百六十三世帯で、二万五千百八十五人、その他疎開者は一千五百四十四世帯、七千五百三十八人であった。市民が最も多く疎開したところは赤佐村で三百四十四世帯、二千百七十三人、次が北浜村で四百八十六世帯、一千八百七十一人であった。ただ、この二郡以外の市町村への疎開者の調査はなされていないので全体の数は不明である。疎開者の多くが浜松市内に帰ってくるようになったのは昭和二十年の秋以降であるが、詳しい資料はなく、人口統計で見るしかない。ただ、これは疎開者以外に復員や海外からの引揚者も入った数字となる。終戦時の浜松市の人口は八万一千人、それが昭和二十一年四月二十六日の人口調査によると十万一千余人になったというから、終戦後八カ月余りで約二万人が帰って来たことになる。そのうち学童は終戦時は約九千名、それが四月二十六日には一万六千五百名までになった。浜松市はこれらの帰還者の住宅や食糧の確保、教育施設の復興に全力を尽くしたものの、決して満足のいくものではなかった。これら疎開者の帰還とともに軍隊などからの復員者、海外からの引揚者も続々と浜松に帰ってきた。これらの人々が浜松駅に着いて見たものは一面の焼け野原で、自分の家の焼け跡にたどり着くことも出来ない状況であった。このため市は昭和二十年九月二十二日に浜松駅前に浜松市案内所を設置し、帰還者の案内、湯茶の接待、荷物の一時預かりを行った。この案内所は翌年四月末日に閉鎖となったが、復員者や海外かわららの引揚者が続いたため、六月一日に再開、駅前の法雲寺に藁布団や毛布を備えつけた仮眠所もつくった。ここには市の職員のほか多くのボランティアが詰めて昼夜休むことなく援護に当たった。当時は引揚民指定列車が上下十一本(その後十八本に増発)設定されており、深夜・早朝に到着するものが四本もあった。衣食の援助は最小限行われたようで、住宅のめどが全く立たない者には新津村の旧廠舎に、満州の浜松村からの引揚者は葵町の農業訓練所に一時収容するように案内を行った。この案内所は昭和二十二年まで業務を継続したようだ。