[昭和天皇の浜松行幸]

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 昭和天皇は昭和二十一年六月十七・十八日の両日、戦後初めて静岡県下へ行幸された。浜松への行幸は六月十八日、この日は一年前に浜松大空襲があった日であった。天皇は午前八時三十七分に浜松駅に到着、自動車で浜松市役所を訪れ、藤岡市長から戦災状況や復興の現状について説明を受けた。続いて名古屋鉄道局浜松工機部、浜松市北国民学校、日本楽器製造などを訪れて戦災の様子や復興について担当者から奏上を受けた。
 
【『静岡県下御巡幸に関する記録概要』 北国民学校】
 これらの奏上文は『浜松市戦災史資料』四に詳細に出ている。また、静岡県嘱託の青山於菟が記した『静岡県下御巡幸に関する記録概要』には行幸の実態が詳細に記されており興味深い。市長は戦災の概要と復興状況を奏上したが、終わりの方で「本日本市に畏くも 陛下の行幸を仰ぎまして市民は一層の熱意に燃えて復興再建に全力を尽すことゝ存じます」と述べている。浜松工機部で陛下は工員に対して「輸送の原動力は機関車だからしつかり頑張つて下さい」と激励の御言葉を述べられた。北国民学校は戦災で全焼し、隣接の東陽興業会社の工場を借用していたが、青山は次のように記している。
 
  屋根や壁は殆ど全部飛散し、只柱のみ立つてゐる土間の工場である。児童等は其の土間の四隅に、藁莚等を敷いて体操用の腰掛を机代用として踞り、小黒板一枚を教具として寺子屋式の教授を受けてゐるのである。雨天の時は屋根なしだから勿論休校する。壁はないから各教室とも見通しである。一度風でも吹けば塵埃濛々として非衛生的なのは云ふまでもない。…筆者は下検分の時戦災後満一ケ年にして斯る学校の存在するは、市当局の怠慢無関心といはねばならぬと腹立たしく思つたのであつた。
 
【「御臨幸感激録」】
 午前十時に日本楽器製造株式会社に到着、当時の川上嘉市社長は「御臨幸感激録」に注目すべきことを記している。「前回(昭和五年五月三十一日)の御臨幸の時は陛下は御説明を申上げても一言の御言葉はなく、唯御首肯あらせられるだけで、一声も御言葉を伺うことが出来なかった。今度若し工場に御臨幸があるならば、必ず自由に御質問なども伺うことが出来るであろうに……」と記している。そして、陛下が女子工員に「何年ぐらい勤めていますか」「戦災に遭いましたか」「家族は無事でしたか」などと質問され、彼女らの返答に対しては陛下が「ああそう!良かったね」などと御親しい話しぶりであったことを打ち明けている。青山は先述の書で「 …今回の行幸に於ては、元旦に渙発せられた詔書に仰せられた通り、天皇陛下は神秘的な現人神ではあらせられず我等国民の敬愛のシンボルたる人間天皇であらせられた」と書いている。
 この浜松行幸について『静岡新聞』は「市民の復興意欲燃ゆ 戦災一周年に温き御言葉」との見出しの下、「…市長室から一望のうちに眺められる大戦災都市浜松の復興ぶりを御覧になり、藤岡市長から奏上の災害並に復興の現況等を御聴取の後『浜松は非常に激しい戦災を受けてゐる、みんなで協力して是非昔の浜松を再建するよう…』にとの御言葉を賜り一同は感激に眼頭を熱くした、行幸を仰いだ今日の佳き日は浜松市民にとつて忘れることの出来ない戦災一周年である、昨年六月十八日、六万五千発の焼夷弾を受けて文字通り全市を灰燼に帰した記念すべき日である、この日遇然とはいひながら親しく陛下のお言葉を頂いて浜松市民の復興への意欲は一段と燃え上るものがあつた」と記している。