土地利用計画ではこの区域を市街地区域、緑地区域とその両方に決定することを留保する留保区域の三つに分けた。このうち市街地区域は商業、工業、住居の三地域に区分した。緑地区域は田畑や山林、池沼、河川などがある地域で、今で言う市街化調整区域に当たるものと言えよう。次にこの区域を地域区分するのであるが、市街地区域は先述のように商業、工業、住居の三地域に区分し、さらに市街地の状況などにより防火地区などを指定する。このうち、商業地域は中央部の市街地の大半で、幹線道路沿いも指定した。工業地域は国鉄工機部や後に設立された東洋紡績浜松工場周辺や馬込川流域、南部一帯などとし、住居地域は西部や北部の台地一帯、南東部の工業地域周辺も指定した。
【街路計画】
2 街路計画
昭和二十年十二月に閣議決定された国の戦災地復興計画基本方針の街路の項目には、将来の自動車交通に対処することや防災や保健、さらに美観にも配慮することが記されていた。これにより主要幹線道路の幅員は、大都市では五十メートル以上、中小都市では三十六メートル、その他の幹線道路は大都市は三十六メートル以上、中小都市は二十五メートル以上などと決められていた。これを受けて市が戦災復興院に提出した浜松の主要幹線道路の幅員が五十メートルであったということは先述の通りである。これらを勘案し、東海道本線や私鉄、主要駅、また、国道や県道などとの連携を考慮して、この区域内に五十路線の街路計画を作成した。これは昭和二十一年十月四日に戦災復興院告示第193号により決定された。表2-1の街路計画は、浜松都市計画街路表のうち幅員三十六メートル以上の道路である。今、浜松市役所東の南北に通じる道路は伝馬池川線といい、計画上の幅員は浜松一の五十メートルであった。そのほか幅員三十六メートルの道路は七本もあったが、実施段階で幅員は狭められた。
表2-1 街路計画
出典:『戦災復興誌』第八巻 浜松市より作成
街路番号 | 路線名 | 起 点 | 終 点 | 主なる経過地 | 摘 要 | |||
等級 | 種別 | 番号 | ||||||
広 路 | Ⅰ | 伝馬池川線 | 伝馬町 | 下池川町 | 50 | 昭和21.10.4 戦復告第193号 | ||
但しⅠ.3.6号線との交叉点より終点に至る区間の幅員はこれを36メートルとす (変更) 昭和29年に街路番号Ⅰ.1.2号、幅員36メートルとした | ||||||||
Ⅰ | 1 | 1 | 旭上島線 | 旭町 | 上島町 | 助信町 | 36 | 〃 |
但しⅠ.1.4号線との交会点より終点に至る区間の幅員はこれを27メートルとす (変更)昭和29年に街路番号Ⅰ.1.2号線旭八幡線、起点旭町245番地先、終点常盤町436番地先、幅員36メートルとし、起点付近に地積11,000平方メートルの広場を設けるとした | ||||||||
Ⅰ | 1 | 2 | 八幡子安線 | 八幡町 | 子安町 | 36 | 〃 | |
但しⅠ.3.17号線との交叉点より終点に至る区間の幅員はこれを27メートルとす (変更) 昭和29年に街路番号Ⅰ.3.22号八幡植松線、起点八幡町436番地先、終点植松町1,560番地先、幅員25メートル、但し起点よりⅠ.3.2号線との交点迄の幅員を30メートルとした | ||||||||
Ⅰ | 1 | 3 | 砂山森田線 | 砂山町 | 森田町 | 36 | 〃 | |
但し起点よりⅡ.1.2号線との交叉点に至る区間の幅員はこれを25メートルとす (変更) 昭和29年に廃止さる | ||||||||
Ⅰ | 1 | 4 | 高林線 | 高林町 | 高林町 | 36 | 〃 | |
(変更) 昭和29年に廃止さる | ||||||||
Ⅰ | 1 | 5 | 高林和田線 | 高林町 | 和田村大字永田 | 細島町上西町 | 36 | 〃 |
(変更) 昭和29年に街路番号Ⅱ.2.6号中沢和田線、起点中沢町80番地先、終点和田町永田1,174番地先、幅員16メートルとした | ||||||||
Ⅰ | 1 | 6 | 龍禅寺中ノ町線 | 龍禅寺町 | 中野町大字中野町 | 向宿町小安町 宮竹町和田村 | 36 | 〃 |
但しⅠ.1.5号線との交叉点より終点に至る区間の幅員はこれを22メートルとし、Ⅰ.3.2号線との交叉点付近に地積約6,000平方メートルの広場を設く (変更) 昭和29年Ⅱ.2.8号線との交叉点より終点迄の幅員を22メートルとした | ||||||||
Ⅰ | 1 | 7 | 龍禅寺可美線 | 龍禅寺町 | 可美村大字村面 | 浅田町 | 36 | 〃 |
但しⅡ.1.3号線との交会点より終点に至る区間の幅員はこれを22メートルとす |
【公園緑地計画】
3 公園緑地計画
これまで浜松市には本格的な公園はなく、わずかに市内の社寺の境内地を利用したものであった。戦災を機に市民のための公園設置を真剣に考えた結果、特別都市計画整理事業の区域外のものも含め、全部で十六カ所の公園を決定した。比較的広いものとしては今もある浜松城公園、和地山公園、四ツ池公園(区域外)などがあった(表2-2 公園緑地計画)。
表2-2 公園緑地計画
出典:『戦災復興誌』第八巻 浜松市より作成
注:昭和24年当初計画のみ掲載。
注:表中、当初とは昭和24年の計画。変更後とは昭和30年、33年に廃止変更及び追加されたもの。
番号 | 名 称 | 位 置 | 地 積 | 摘 要 | |
当初 | 変更後 | ||||
1 | 浜松城公園 | 松城町、元城町 | ha 10.24 | ha 8.39 | 普通公園 地区内 |
2 | 鹿谷公園 | 亀山町、下池川町 | 2.56 | 2.56 | 現在地区外 |
3 | 犀ガ崖公園 | 追分町 | 0.87 | 0.87 | 児童公園 |
4 | 和地山公園 | 和地山町、追分町 | 10.16 | 8.50 | 普通公園 地区内 |
5 | 四ツ池公園 | 幸町、上島町 | 26.80 | 29.09 | 自然公園 地区外 |
6 | 茄子公園 | 船越町 | 3.56 | 5.00 | 普通公園 |
7 | 野口公園 | 野口町 | 2.82 | 1.33 | 現在地区外 |
8 | 馬込川公園 | 馬込町、松江町、中島町、茄子町 | 33.94 | 31.98 | (緑道) 現在地区外 |
9 | 向宿公園 | 領家町、向宿町 | 4.54 | 4.54 | 普通公園 地区外 |
10 | 白羽浜公園 | 中田島町 | 22.09 | 31.50 | 自然公園 〃 |
11 | 高砂公園 | 浅田町 | 2.35 | 2.35 | 現在地区外 |
12 | 浅間公園 | 浅田町 | 0.65 | 0.65 | 児童公園 地区外 |
13 | 五社公園 | 利町 | 2.90 | 0.63 | 児童公園 地区内 |
14 | 出の丸公園 | 松城町 | 0.76 | 廃止 | |
15 | 鴨江山公園 | 鴨江町 | 13.85 | 6.30 | 現在地区外 |
16 | 根川山公園 | 入野町 | 30.00 | 30.00 | 自然公園 地区外 |
注:昭和24年当初計画のみ掲載。
注:表中、当初とは昭和24年の計画。変更後とは昭和30年、33年に廃止変更及び追加されたもの。
【墓園計画】
4 墓園計画
市内で焼失した寺院とその墓園を移転させるために中沢墓園の建設を計画した。住吉墓園は一般の墓園とは異なり、旧陸軍墓地を修景地として保存するものであった。
【土地区画整理事業】
5 土地区画整理事業
今回の戦災復興特別都市計画事業の特色は土地区画整理事業が同時に並行し行われることであった。この区域は先述のように二百七十二万一千坪であったが、これを一単位として行うことには無理があり、地理的条件や地区の特色を勘案して全地区を六工区に分割して行うことになった。これを示したのが表2-3の復興土地区画整理区域である。
表2-3 復興土地区画整理区域
出典:『浜松市戦災復興誌』より作成
工区名 | 面積 | 工区名 | 第1回の変更(昭和24年) による区域面積 | 第2回の変更(昭和30年) による区域面積 | 第3回の変更(昭和34年) による区域面積 |
第1工区 | 307,500坪 | 第1工区 (中央) | 307,500坪 | 316,070坪 | 316,070坪 |
第2工区 | 424,780 | 第2工区 | 234,000 | ||
第3工区 | 589,870 | 第3工区 (和地山) | 150,500 | 150,500 | 150,500 |
第4工区 | 678,930 | 第4工区 第5工区 | 108,300 | ||
第5工区 | 719,920 | 第6工区 (駅南) | 213,000 | 135,900 | 91,000 |
計 | 2,721,000 | 1,013,300 | 602,470 | 557,570 |
6 その他
以上のほか、上水道・下水道計画などもあるが、事業の詳細は『戦災復興誌』第八巻及び『浜松市戦災復興誌』を参照されたい。
【戦災復興特別都市計画事業】
昭和二十一年十月四日、戦災復興特別都市計画事業のうち、特別都市計画街路と土地区画整理事業が認可された。そして翌年一月十四日には戦災復興院から特別都市計画事業執行年度割の決定がなされ、昭和二十五年度までに完了するように着工された。ちなみに、昭和二十一年度の予算は約三百十六万円、ほとんどは国や県の補助金で市費は約四十五万円であった。終戦一周年の昭和二十一年八月には県の協力を得て第二次都市計画事業の調査を終えたが、将来の自動車交通の発達や火災防止、美観を考慮し、二度と道路を拡幅しなくてもいいようにと思い切って道路幅を広げ、理想的な都市計画を打ち立てた。計画が完成し、これから説明会を開催しようという昭和二十一年十一月に藤岡市長は辞表を提出、以後は助役が市長代理となって事業の開始に備えたが、翌二十二年一月に早くも元城町などの関係住民が設計変更の陳情に乗り出した。同二十二年度は本格的な着工を見越し、四月に区画整理委員の選挙を行った。