浜松市三役の辞任

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【市長代理助役】
 男女平等、労働組合の結成、財閥解体、農地改革など戦後の民主化が進むなか、昭和二十一年(一九四六)一月四日にはGHQは軍国主義者の公職追放を指令した。これを受けて政府は戦争と軍国主義を推進してきた教職員や市町村長、団体や企業の幹部などにもその範囲を拡大した。このような情勢の下、同年十一月八日に藤岡市長、十日に神谷収入役、十一日には鈴木助役が相次いで辞表を提出した。これにより浜松市は三役を一時に失うことになった。辞任の理由は明らかではないが、藤岡市長は市長就任前に関東州(遼東半島にあった日本の租借地)を治める関東庁の警務局長を務めており、また、神谷収入役は陸軍大尉で在郷軍人会や大政翼賛会などに関係していたことが原因だったかもしれない。藤岡市長の辞表提出記事の横には、公職追放関係の記事が大きく出ており、さらに「地方公職者辞職続出」の見出しの下、佐賀や島根の県会では議員の辞職が多数に上り、議会の開会が不可能になったという記事が出ている。藤岡市長は十一日に総務課長の白井信一を助役に推薦し、市会の承認を得た。また、藤岡市長の辞職は十二日に内務大臣から認可となり、白井新助役は同日市長代理助役に就任した。
 公職追放は郡部の町村長にも及び、西遠四十六町村長のうち追放令に抵触しなかったのは篠原村、長上村など十一カ町村長のみで、同月十六日までに三方原、南庄内、笠井、和田、積志など二十一町村長に退職許可が下りた。このころの新聞の見出しには「狙ひは民主化の促進 公職追放の拡大」「断乎、首脳を一新 地方自治体の清新企図」とあり、これまで戦争に協力してきた人々に責任を取らせたのであった。
 
【定例市会】
 浜松市会議員では十一月十九日に二名が追放令に抵触するとして白井市長代理に辞表届を提出、議員の欠員は五名となった。しかし、市会の開催は可能で、この後に開かれた浜松市会では定例市会を年六回(二月・四月・六月・八月・十月・十二月)開くことを決め、十二月から実施するとした。