[婦人参政権と戦後初の総選挙]

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【婦人参政権】
 戦後民主化の一つが男女平等であり、それを具体化したものの一つが婦人参政権である。昭和二十年十二月十七日に衆議院議員選挙法の改正公布があり、これにより大選挙区制による選挙と婦人参政権が認められた。選挙への準備はすでに十一月一日現在により選挙人名簿の作成を始めていたが、前回までの有権者(二十五歳以上の男子)に加えて、二十歳から二十四歳までの男子と二十歳以上の女子が加わることになり、これまでにない人数となった。この選挙法改正は歴史的なもので、『静岡新聞』は昭和二十年十二月二十五日に選挙についての付録二ページを発行した。その見出しには「厳粛に過去を検討」「選挙法根本的改正」「全国民が政治に責任」「年齢引下げ」「婦人も参政」「選挙権の拡張」「婦人の投票にどれだけ期待するか」「我が国女性の参政権獲得までの歴史」などの文字が大きく出ており、長文の記事がある。この紙面に浜松市ほかの有権者の数が出ている。浜松市の婦人有権者は二万三千四百五人、男女合計は四万一千七百八十九人で、女子は男子より五千二十一人も多かったのである。
 この選挙の特色は大選挙区制で全県一区、当選者は十四名、そのため投票用紙には三人分の名前を書く欄が印刷されており、三人書いても、二人書いても、一人しか書かなくてもいいという選挙であった。このため、新聞にはこの投票用紙の見本を掲載し、知事が投票について事細かく注意点を書いていた。立候補したのはなんと八十二名、激烈な言論戦が繰り広げられた。浜松市とその周辺で立候補したのは、浜松市の廿日出厖(はつかでひろし)・岩崎豊・井上啓一郎、浜名郡三方原村の長谷川保、篠原村の鈴木里一郎であった。浜松で野外の大演説会が開催されたのは昭和二十一年三月二十一日、五社神社境内には四千余の聴衆が押し掛けた。当時の新聞には「一人の野次馬もなく、又若い婦人有権者達が初めから終りまで熱心に聴きいつてゐる姿が散見された」と出ている。特に熱心であったのは下池川町婦人会で、信愛高等女学校講堂での立会演説会には全員が参加、各党候補者から政見を聴いて翌月十日の投票に備えた。
 
【総選挙】
 昭和二十一年四月十日は婦人参政権が認められて初の衆議院議員の総選挙、浜松市内十二カ所の投票所には未明から数千人の有権者が殺到、『静岡新聞』の見出しには「早朝から長蛇の列」とある。四月十二日に県下の投票率が新聞に発表されたが、それによると県下全体の投票率は七十五・三%、男子の八十二・四%に対し女子は六十九・八%であった。ちなみに浜松市は男子八十四・三%、女子は六十九・二%であった。注目すべきは浜名郡の投票率は郡市中最高で八十六・七%に上り、中でも浜名郡伊佐見村は九十四%に達し、投票率県下第一位となった。
 当選者十四名中、第一位は山崎道子で十九万票を超え、二位の七万六千票の二倍を超えた。浜松周辺での当選者は長谷川保と廿日出厖であった。