【浜松市議会 林ひで】
地方自治法が昭和二十二年五月三日に新憲法と同時に施行された。これにより県や市町村の行政は中央の指示を受けることがなくなり、真の地方自治が始まった。地方議会の名称は県議会、市議会などと呼称するようになった。当時は公職追放が話題となっていたが、当選した議員全員が資格審査にパスして追放を免れた。同年五月二十八日に初めての市議会を開き、議長に木全大孝、副議長に徳田由太郎を選んだ。市議会の議員は社会党や共産党など政党に所属する議員もいたが、大半は無所属議員であった。この無所属議員らは議会の主導権を握るべく多数派工作に乗り出し、反市長派の旧建設同盟系や坂田市長擁護派の浜松民主同盟などが数を競い合った。初めての市議会開会から十日後の同年六月七日に『静岡新聞』は「浜松市政を語る」という標題の下、市長や市議の座談会の記事を掲載した。記事には、正副議長選で明朗性を欠いたことや市議会に政党色を入れるか入れないかの議論が載った。市議の林ひでは「市会議員が肩書を利用してよからぬことをしているとの風評を過去において聞いている、新議員はお互いに戒心して真に市民の信頼する公僕でありたい、宴会なども制限し芸妓の入席を禁止したい」と女性議員ならではの意見を述べている。当時の市議会は学校の復興や市役所の部課設置、消防団設置の条例案の検討など多くの問題を抱えていた。昭和二十三年になると、市の農業訓練所を県の果樹試験場敷地として寄付することや、三方原への揚水事業問題、さらに都市計画問題などで市長に質問を浴びせた。昭和二十三年三月上旬の『静岡新聞』の市議会関連の記事の見出しには「市当局を追求 浜松市会質問戦」とあり、また、都市計画事業の土地区画整理などで市長に猛攻を浴びせたとの記事もあり、議決機関と執行機関との間には常に緊張感があったことが分かる。
昭和二十四年五月二十八日に開かれた浜松市議会で正副議長と常任委員長の改選問題が話し合われたがまとまらず、六月一日に開会して決めることになった。一日になっても五月会(十七名)と研究会(十六名)の対立の溝は埋まらず、五月会の全議員は議会をボイコットするまでになり、ついに議会は無期延期となった。ようやく正副議長が決まったのは六月二十八日の議会であった。議長選を巡る保守系議員の派閥の対立は、その後も後を絶たなかった。
昭和二十三年三月、自由党に民主党の幣原派が合流し、民主自由党が結成され、吉田茂が総裁に就任した。これが地方政界にも波及し、二十四年十月に民主自由党浜松支部が結成された。これにより浜松市議会議員三十五名中、二十五人が入党し、以後市議会で絶対多数を占めるに至った。このほかには社会党二名、無所属三名、その他五名となった。ただ、絶対多数を占めた浜松市議会の民自党内にあっても二つの会派の対立は続いた。