【都市計画事業 田町問題 伝馬池川線 有楽街】
坂田市長就任の直前に行われた区画整理委員の選挙は有力者に都合の良い選挙になったとし、公正な選挙を求める運動が起こった。そして多くの商人たちが焼け跡の私有地に都市計画を無視して商店や住宅の建築を開始した。こうしたなか、昭和二十二年六月になって坂田市長は上京し、都市計画の推進について関係各省庁と協議を行い、「万難を排してやってほしい」との指示を受けた。そしていよいよ十月から本格的な都市計画事業が行われることになった。ところが、その前月の九月ごろから道路の大幅拡幅が予定されている地区から反対論が表面化してきた。都市計画により影響を被る家屋は全市二万六千戸の約五割に相当する一万三千六百戸に達し、この中の約四割の五千四百戸は都市計画を無視した建築であった。九月に開かれた市議会で市当局は「街路工事着手の場合は速に立退いてもらわねばならぬ。」と答弁した。該当する町は伝馬町、旭町、田町、板屋町など市中心の繁華街の商店がほとんどである。もし立ち退きとなれば莫大な損失となるわけで、これらの影響を受ける人たちが集まって新街路整備事業の延期を言い出したのであった。昭和二十三年になると田町の住民が道路の拡幅反対と換地処分に公正性を欠くとして猛烈な反対運動を展開、五月下旬には市長と市議会に対して換地問題の再審査を要求するまでになった。以後、田町問題は〝都市計画のガン〟とさえ言われるようになり、事業は先に進まなくなった。また、平田・常盤の二町も都市計画の改定や延期を求めるなど、反対運動は各地に広まっていった。当時の浜松の人々の多くは今日のような自動車交通の発達などは夢にも考えていなかったのであろう。事業が進捗しないなか、昭和二十四年に入ると、市は施工面積を百一万坪に減らし、道路幅も最大三十六メートルに、最小幅員も六メートルから四メートルにするなど、当初の計画からすると著しく貧弱な計画に修正した。そして、事業年度を昭和二十九年度まで延長して完成を期すことになった。しかし、田町の住民は浜松市の都市計画は憲法違反とし、反対運動を継続、昭和二十三年から始まった有楽街の道路整備も南部地区の立ち退きが難航していた。同二十五年になると伝馬町から下池川町に通じる伝馬池川線で百八十戸の移転交渉が成立したが、元城町では依然として反対運動が根強く、現在五~六メートルの道路をなぜ三十六メートルにするのかという声や、鍛冶町では現在でも広すぎるのにこれ以上広くするのは納得できないなどの意見が続出していた。同年八月になると伝馬町などの商店主が弁護士を伴って県庁に出頭、県知事に換地指定は不当であるから都市計画には応じないとの非常訴願の申し立てを行うまでになった。また、有楽街の南入口付近では立ち退かない家に立ち退き命令を検討するなど、紛糾が続いた。昭和二十六年三月の『静岡新聞』には、もう五年も過ぎたのに浜松の都市計画は遅々として進まず、第一工区すら大半が残っていると書かれるほどであった。