[行政改革と『浜松市報』]

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【行政改革 『浜松市報』】
 坂田市政が始まったころ、浜松市は財政難に陥っていた。税金の滞納や職員の給与増などにより深刻な事態となっていたので、坂田は職員の減員や機構改革を推し進めようとした。当初の案では職員の六分の一、約百名を減員し、経費の節減を図るとともに従来の一部十四課を改めて、三部(総務部・経済部・建設部)十九課とし、大幅な人事異動を行うとした。これに対し職員組合はいち早く反対を表明し、市議会も再検討すべきものとし、昭和二十二年十月十四日の議会で部課設置条例を修正の上可決した。ただ、大幅な人事異動は組合の反対などにより当初の予定が大幅に延びた。
 『浜松市公報』は昭和二十年五月から休刊していたが、坂田市長はこの復刊を考え、昭和二十三年五月『浜松市報』二十五日に三年ぶりに発行、紙名を『浜松市報』とした。『浜松市報』はいわば浜松市の官報というべきものである。復刊第一号で坂田市長は「日本の真の民主化は、地方自治体がその機能を完全に発揮する時に於てこそ始めて達成せらるべきは言を俟ちません。 …市と市民との密接なる結び付きこそ本市復興の要諦であり、市報の復刊も亦此の観点に立ち、相互連繋の一環とする意に外ならないのであります。」と述べている。この『浜松市報』の発刊により、これ以降の市政の展開を詳細に知ることが出来る。

図2-4 『浜松市報』の復刊