[町村合併]

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【伊賀正一 東厚西薄の県政】
 昭和二十二年九月一日に浜松市鉄道電化促進委員会が市の公会堂で開かれたが、その席上各委員から県政に対する不満が述べられた。小林知事は浜松市が電化促進運動に立ち上がるまでは沼津・静岡間の電化実現に努力を払っていたこと、また、競馬場設置問題でも最初から静岡市に設置する腹を決めていたことなど、浜松市は常に継子扱いを受けており、県の施策において西部を軽視する傾向に批判が高まった。この際、県の西部は静岡県から分離して浜名郡、引佐郡、磐田郡、周智都、小笠郡、榛原郡の大井川以西と愛知県東三河も入れて、人口百五十万人の「大浜松県の設置運動を起すべきである」という意見も出てきたのである。当時、電化期成同盟会の委員をしていた伊賀正一は「小林知事に限らず歴代知事は東部に厚く西部に薄い県政を行つて来た、西部は浜名、引佐、小笠という穀倉地帯を持ちながら一粒の米も余分に食えない、これはそつくり供出して県民全体に均等に配給するからだ、食糧ばかり均等でその他の施設を袖にする、これでは堪らないというので分離問題が起つて来た訳だが、世論がまとまれば浜松県実現は決して困難でないと思う、大いにやろうではないか」と述べていた。この浜松県設置問題はその後立ち消えとなったが、県政における「東厚西薄」問題は長期間にわたって論議され、浜松市民の関心は高かった。
 
【町村合併 浜名湖港 明神野・東明神野の合併】
 浜松県構想は消えたが市は将来の発展を考え、周辺町村との合併を考えるようになった。浜松では戦前の横光市長時代に可美村との合併がご破算となり、藤岡前市長も合併には慎重な姿勢を崩さず、在任中は一カ町村との合併も出来なかった。しかし、坂田市長は、織物工業の復活をはじめ一般の輸出産業の発展のためには隣接町村と緊密な連携を図ることが重要であるとし、機会があるごとに懇談を交えて市町村との連絡や協力態勢の確立に意を注いだ。坂田が市長に就任して間もなくの昭和二十二年九月の段階では舞阪町の浜松市合併の話もあった。これは浜名湖港築港問題が絡んでいたようだ。ただ、浜松から見ると可美、新津、篠原を越えた地で、直ちに合併とまではいかなかった。当時は三方原台地を含めて天竜川から浜名湖に至る町村を対象としたが、話題の中心は入野・神久呂・和田・中ノ町・飯田・芳川の六カ村であった。こうしたなかで、昭和二十三年浜名郡可美村の明神野と東明神野の二地区が浜松市への編入を申し入れた。浜松市はこれに対し、編入には異存はないが可美村全体での合併を要望した。しかし、可美村側では高塚・増楽・若林・東若林の四地区がそれぞれ大会を開き、両明神野の浜松市編入に賛成する決議を行い、村議会も同様の決議を行ったので、可美村全体での浜松市合併は絶望となった。戦前に続いて可美村の合併が失敗に終わったことに対し、市民や市議会は坂田市長の責任を追求することしきりだった。こうして、浜名郡可美村の明神野・東明神野の二地区が正式に浜松市に合併したのは昭和二十四年四月一日、これが戦後の浜松市にとって初めての合併となった。
 
【蜆塚の合併】
 浜松市広沢町に隣接する浜名郡入野村の蜆塚地区は、村の小学校までの道のりが約三キロもあり、遠距離の通学に難渋していた。広沢小学校が昭和十年に開校すると入野小学校に通学せず、ごく近い広沢小学校に行く子どもが出始めた。戦後になり、蜆塚の住民が増え始めると、広沢小学校への通学児童が増え、これ以来浜松市への合併を望む住民が多くなった。これを受けて入野村は昭和二十四年三月に蜆塚の浜松への合併を承認し、浜松市に合併を陳情した。理由は先述のように学童の通学の便を図るというものであった。市との協議が成立し、蜆塚が正式に浜松市に合併したのは昭和二十四年八月一日のことであった。
 分村してまでも浜松市への合併を希望していたのは両明神野、蜆塚のほか、長上村の中田と原島の二地区であった。これは村の教育費(特に学校の寄付金)が浜松市と比べて約十倍にもなることなどがその理由であったようだ。ただ、長上村長は昭和二十四年四月二十八日に坂田市長を訪ね、両区を分離すると長上村が立ち行かなくなると窮状を訴えた。坂田市長は「地元で円満に話がつかぬ限り市としてはすすんで編入させる気はない」と語り、合併はご破算となった。
 
【天竜川改修 シャウプ勧告 市町村別人口数】
 戦後の天竜川改修での大きな工事は西派川の締切であった。この計画推進のために浜松市は天竜川右岸の町村と一致して運動を進めた。天竜川西派川は東海道本線の鉄橋のすぐ下流で締め切ることとなり、工事は昭和二十五年から始まった。この運動がきっかけとなって天竜川下流(右岸)の村々との合併話が持ち上がった。このような折、アメリカのコロンビア大学のシャウプ教授を団長とする調査団が昭和二十四年五月に来日、恒久的な税制改革のために政府に数多くの勧告を行った。これがシャウプ勧告で、翌年からの税制改革に取り入れられた。この勧告は地方自治の分野にも大きな影響を与えたが、特に市町村の規模を適正にして財政的な基盤を強化することが求められた。具体的には人口五千人未満の町村は合併を促進し、人口七千人から八千人程度を標準にすることであった。当時の天竜川以西の市町村の人口は表2-5の通りである。浜松市の坂田市長がシャウプ勧告に基づく平衡交付金のことで、周辺の五島・和田・飯田・芳川・新津・可美・入野・長上の各村の首脳部と接触し、合併の是非を尋ねたのは昭和二十五年九月であった。このうち可美村と入野村は村の財政が豊かで合併には反対、芳川村は村長と議会が対立して村政が停滞、合併どころではなかった。長上村も村内が分裂状態、これに対し合併に最も熱心なのは五島村で、飯田村も賛成の態度を取り、新津村は是々非々、和田村は煮え切らないなどの感触を得た。
 
表2-5 昭和25年の市町村別人口数

人口
総数
浜松市152,02873,79678,232
浜名郡233,749111,871121,878
河輪村2,9561,4451,511
五島村2,6651,3351,330
芳川村6,8783,3803,498
飯田村4,6142,2172,397
和田村6,2763,0883,188
長上村7,0153,3573,658
積志村12,6606,2306,430
笠井町6,9783,3093,669
北浜村17,7357,66910,066
小野口村9,7184,6885,030
赤佐村7,1723,6773,495
中瀬村6,5713,1833,388
龍池村3,1101,5581,552
豊西村4,3492,0492,300
中ノ町村6,3073,0633,244
三方原村7,7173,9303,787
可美村7,3243,2974,027
新津村5,7332,7962,937
篠原村11,1385,3345,804
舞阪町9,1314,3884,743
新居町12,5285,9546,574
鷲津町10,0324,1285,904
新所村4,6712,3032,368
知波田村3,1921,5791,613
入出村3,3771,6371,740
和地村4,0102,0002,010
吉野村2,1611,1131,048
北庄内村6,2103,0653,145
南庄内村2,5001,2041,296
村櫛村3,8491,8412,008
雄踏町10,6285,2195,409
神久呂村7,0233,4283,595
伊佐見村6,3943,1683,226
入野村6,0432,7153,328
白須賀町5,0842,5242,560
引佐郡68,42133,59634,825
気賀町11,4305,5205,910
中川村4,5492,2502,299
金指町1,811858953
都田村6,0173,0202,997
麁玉村8,6754,2624,413
鎮玉村4,6412,3622,279
伊平村3,3431,6371,706
井伊谷村4,3492,1342,215
奥山村3,8821,9161,966
東浜名村6,5693,2153,354
三ヶ日町13,1556,4226,733

出典:昭和25年『国勢調査報告』第七巻より作成
注:昭和25年10月1日 国勢調査