五島・新津・河輪三村の浜松市合併

50 ~ 51 / 900ページ
 市長は理想的な大浜松を建設するには、西は弁天島から東は天竜川西岸までを区域としなければ目的の達成は出来ないと言い、明年は合併に持っていきたいとの意欲を示していた。十月に入ると浜松市と五島村は合併協議に入り、五島村は十カ条に上る合併条件を出した。主なものは、土地改良費の地元負担金三分の二を市で補助する、道路の建設、市営バスの運行、港湾施設の建設、小学校の新築、公民館の新築、現吏員を市の吏員に採用するなどであった。これに対して、市議会の一部からは五島村の要求は浜松市の財政負担を重くすること、五島村だけでなく芳川村や河輪村と一緒に合併すべきとの意見も出た。これについて五島村側は合併条件は希望であって必至条件ではないと態度を軟化させた。昭和二十六年一月になると、新津村が合併に意欲を出し、河輪村は隣接の芳川村と同時合併を期待していたが、芳川村が神輿を上げないことに業を煮やし、河輪村単独で合併に踏み切った。芳川村の浜松市合併は同年二月五日の村議会で結論が出ず、翌日になって住民投票の結果を発表、反対多数で浜松市への合併は時期尚早とのことで否決された。昭和二十六年二月八日、浜松市議会では五島・河輪・新津の三カ村の合併を賛成多数で可決した。三村の合併により、浜松市の人口は十六万三千四百三十八人、世帯数は三万三千三百十四世帯となり、これは戦前最高(昭和十九年)の十八万人には及ばないものの、終戦時の二倍に達したことになった。坂田市長は合併が市議会で可決された後、「在来の都市は商工のみでもつてその整容としておつたのでございまするが、今後の都市の行き方としては、私はそれに農あるいは水産業を加えて渾然一体となつた経済的養成をする必要があると存ずるのでございます。」と述べた。市長としては、五島には漁港を建設し、水産業の振興を図り、新津には西瓜をはじめ多くの農産物を生産する基地に、河輪は工業地帯化する構想を持っていたようだ。こうして五島・新津・河輪三村の合併は昭和二十六年三月二十三日に行われ、同日浜松市公会堂で合併祝賀式が挙行された。三村でも前日、前々日に同様な式典が開催された。
 
【笠井町の誕生】
 先述のようにシャウプ勧告以来、町村の合併話は各地で進んでいたが、その目的は役場費の節減などによる財政の健全化、有能な人材の登用、区域内団体の活動力強化などであった。反面、役場がなくなり、住民に不便を来すことや、民心の融和統一が欠ける、民心の反映の困難さなどが指摘された。こうしたなか、浜松市以外で合併話が進んでいたのは浜名郡笠井町と隣接する豊西村であった。当初は両町村による組合立統合中学校の建設が話し合われたが、これが一気に町村合併にまで進んでいった。合併による新町名の決定で多少の問題はあったが、合併の話し合いは急速に進み、昭和二十六年二月二十七日に合併に関する協定書が締結された。それによると新町名は笠井町と決定、役場はこれまでの笠井町役場とし、豊西村役場は町立図書館と幼稚園に転用することなどが決められた。こうして笠井町と豊西村は昭和二十六年四月一日に合併し、新しい浜名郡笠井町が誕生した。このほか、当初は笠井町に合併しようとしていた浜名郡竜池村は同郡北浜村との合併に傾き、中ノ町村と和田村、南庄内村と村櫛村、引佐郡では気賀町と中川村、金指町と井伊谷村の合併話が進んでいた。これらの内、合併が行われたのは昭和二十六年の北浜村と竜池村、昭和二十八年の金指町と井伊谷村、昭和三十年の気賀町と中川村で、それぞれ北浜村、引佐町、細江町となった。
 合併を推し進めて来た坂田市長は昭和二十六年四月の選挙に再選を目指して立候補したが、僅差(きんさ)で岩崎豊に破れ、以後の市町村合併は岩崎市政の下で行われることとなった。