【ドッジ・ライン】
こうした状況下、昭和二十年に発足した幣原内閣はGHQの指令を受けて、翌二十一年二月十七日に預金封鎖、新円交換などを含む金融緊急措置令や臨時財産税、食糧緊急措置令などを出し、一方で賃金を抑える政策をとった。同年五月に吉田内閣が発足し、経済安定本部の設置、復興金融公庫の新設、軍需保障の打ち切り、十二月には石炭・鉄鋼などの重要産業部門に資材や資金を集中する傾斜生産方式を取り入れた。この間アメリカの救援食糧の大量放出やガリオア(占領地救済)基金、エロア(占領地経済復興援助)基金による経済復興資材の大量供給も行われたが、インフレの進行は依然として収まらなかった。そこでGHQは昭和二十三年十二月十九日にアメリカの指示を受けて第二次吉田内閣に強力なインフレ収拾策として、予算の均衡、徴税の強化、賃金の安定、物価の統制など、いわゆる経済安定九原則の実行を指令した。激しいインフレの続くなか、アメリカ政府の要請によりデトロイト銀行頭取で、GHQの財政顧問として来日していたドッジ公使が昭和二十四年三月七日に第三次吉田内閣に経済安定政策(ドッジ・ライン)を明示し、三月二十二日に、赤字を許さない同二十四年度の国の予算案を池田蔵相に内示した。続いて四月二十三日には一ドル三百六十円の為替レートが発表された。五月に来日したアメリカのコロンビア大学のシャウプ教授を団長とする税制使節団は、八月二十六日に税制改革勧告案を発表した。主な内容は個人所得税を中心とし、所得の把握に努めること、不動産税、住民税など地方に固有の財源を配分し、地方自治の基盤を強化することなどであった。
戦時中健全財政を誇った浜松市も昭和二十一年七月になると、税収入の激減や戦災復興や戦災者・引揚者の援護などに多額の費用がかかることもあって、一千万円に近い借財(起債)を抱えるようになった。これは藤岡市長の時代であるが、当時は国や県の財政に対する基本方針がなく、市長は「もはや、どうにもこうにも打開の道はない」と語り、さらに「政府のしつかりした方針が決定の上市の財政計画を樹て直さなければならぬ」と述べていた。
坂田が市長に就任した昭和二十二年度も財政の窮乏が甚だしく、十月分の市役所職員の給与も補助金のたらい回しによって辛うじて支払う始末であった。昭和二十三年度当初予算の概算要求が出揃ったのが同年二月、坂田は市長査定に当たって新規事業は学校復興など緊急やむを得ないものを除き一切を取りやめるという方針の下に予算案を組んだ。一般会計は七千百二十一万円余、特別会計(水道・乗合自動車・第二次都市計画)は二千九百五十七万円余で、合計では一億七十九万円余となった。これは前年比なんと五百六十八万円余の減額であった。歳入は市税が二千八百六十二万円余、国庫支出金が千七百十一万円余、県支出金が三百八十三万円、そして市債は千二百六十万円余を発行している。歳出では戦災学校や新制中学校の復興・復旧・新築などに二千七百五十一万円余が充てられた。また、自治体警察の発足により多くの経費を計上することになった。同年七月には窮乏する地方財政を立て直そうと地方財政法、地方配付税法が制定され、府県や市町村に自主課税権が認められた。浜松市では市税として市民税や都市計画税など多くの税があったが、このころには自転車税、荷車税、金庫税のほか、扇風機税や犬税まであった。八月にはこの税制改革を受けて追加予算が組まれた。昭和二十四年は、ドッジ・ラインにより超均衡予算が施行されると浜松市にとっても厳しいものとなった。ただ、インフレの進行により金額は大幅に上昇している。一般会計は二億四千五百十万円、特別会計は八千三百三十九万円余で、合計すると三億二千八百四十九万千九十二円となった。市債は二千九百九十万円、支出のうち教育費は七千八百四十三万円余で、ほかを圧していた。
【シャウプ勧告 地方財政平衡交付金】
昭和二十五年はシャウプ勧告により地方税源の強化や地方財政平衡交付金が導入されることになり、浜松市の財政も大きく様変わりをすることとなった。ただ、シャウプ勧告による税法の決定は四月ではなく、九月議会において条例が議決された。これに財源を求めて追加した事業の主なものは失業対策費や市制施行記念事業などであった。地方税制は制度面では画期的変革を遂げたものの、地方財源は総体として窮屈であり、市の財政は市債の発行と短期の借入金、平衡交付金に頼ることが続いた。また、市は市税の徴収も積極的に行い、滞納者への督促や差し押さえなどの手段もとった。表2-6は年次別の予算額と負債額を表したものである。
表2-6 年次別予算額調と負債額調
出典:『浜松市報』号外(昭和27年12月25日)