[競馬場と競輪場]

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【競馬場誘致運動 競輪場 小型自動車競走場】
 敗戦の痛手から再建に向かって必死の動きをしていた全国の地方自治体は、山積する行政課題の達成に必要な財源をいかに確保するかで悩んでいた。このようななか、昭和二十二年に静岡県が財源確保の一環として県営競馬場の設置を打ち出すと、県内各地の自治体で県営競馬場誘致運動が活発になった。浜松市では同年八月以降、競馬場誘致を展開してきたが競争相手が多く、特に静岡市は県の中央部にあり、県庁所在地という有利な点があった。十月三日に静岡で開かれた県馬匹組合候補地選定委員会では大差で静岡市に決まった。ただ、これは県馬匹組合としての決定で、最終決定ではなかったため、浜松市や市議会などは地元選出の国会議員を通じて農林省などへの陳情を始めた。浜松市では競馬場を百十三部隊の跡地(今の本田技研工業(株)浜松製作所一帯)に誘致しようと考えたが、浜名郡三方原村では中部第九十七部隊の跡地へ誘致しようとしていた。県西部で二つの候補地が出たことに懸念を抱いた人たちはこの際、誘致運動を一本化しようと昭和二十三年十二月十日に浜松市公会堂に集まり、協議の結果大井川以西の各市町村に協力を要請し、一丸となって知事や県の委員会に陳情することにした。これを受けて静岡県の事業委員会の一行が市内外の候補地を視察したが、その一つである百十三部隊の跡地は市街地からかなり離れているということから除外され、代わって和地山町の高射砲連隊の練兵場跡地が最適であるとの結論に達した。そして同年十二月十九日に熱海市で開催された県の事業委員会では、浜松市に県営の競馬場を設置することが満場一致で決議され、県に答申することになった。昭和二十四年二月になると県営浜松競馬場の建設委員会が開催され、規模や建設費用などが協議されるようになった。ただ、県は多額の地元負担を要求、浜松市側と対立したが、二月二十六日になって建設費三千万円のうち、民有地八千坪の買収費と家屋移転補償費一千万円は浜松市の負担とし、残り二千万円は県と浜松市で県債を引き受けることで意見が一致した。三月に県と市の幹部が上京し、起債承認の陳情をしたが、前年に出された経済安定九原則や健全均衡予算の建て前から競馬場建設のための起債は認められないとのことで、浜松市への競馬場建設は暗礁に乗り上げた。競馬場建設が不可能となったことを受け、浜松市でこれに代わる競輪場設置の動きが出始め、昭和二十五年五月三十一日に競輪場の設置案が議会で可決された。六月の段階では、一周三百三十三メートルの規格競技場で三万人を収容できる東海一の競輪場にする計画であった。競馬場と異なる点は市営にするということであった。市や議会は自由党や建設省などに猛陳情を繰り返したが、競馬場から競輪場に乗り換えようとする浜松市の態度はほかの自治体や県当局から批判的に受け止められた。静岡県の藤原副知事は「一昨年各都市競争の結果、競輪場は伊東と静岡、競馬場は沼津、三島に、それぞれ設置ときまつているのに、浜松市が競馬場問題を未解決のまま放置して、突然競輪場誘致へ割込んでくるのは不可解である」と強い不満を表明した上、代案として「この競輪場を狙つて取るよりも、去る五月廿七日に通産省令で施行細則の公布をみた小型自動車競走場の誘致運動に転換したらどうであるか」と勧告した。県や地元選出の中村幸八代議士の働き掛けで小型自動車競走場設置の声が高まったことにより、市議会では、競輪、競馬、小型自動車のいずれかを選択するのかを協議することになった。七月になって市は市営の競輪場の誘致を続け、小型自動車競走場は返上したいとの考えとなった。
 浜松市が競馬場を断念したことを受けて浜名郡中瀬村は天竜川の河川敷に本格的な競馬場を建設したいとの意向を坂田市長に示したが、市長からよい返事はなかった。浜松市の公営競技は次の岩崎市長の時代になって二転、三転の後、オートレース場の開場となっていくのである。