[工場誘致、名鉄電車の浜松乗り入れ]

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 昭和二十四年になると既述したような諸政策によって食糧事情は少しずつ好転し、インフレは次第に収まってきたが、不況色が強まり多くの中小企業は苦しい経営を強いられ、倒産するところも出てきた。しかし、昭和二十五年六月二十五日に始まった朝鮮戦争により、主として繊維・金属・機械・化学工業などを中心に戦争特需が沸き起こり、ドッジ・ラインで不況にあえいでいた日本経済は輸出の好調に支えられて一時的に好景気を謳歌した。翌二十六年の鉱工業生産はほぼ戦前の水準に回復し、日本経済の復興は一段落した
 
【日本専売公社浜松工場 倉敷紡績】
 戦災復興に取り組んでいた坂田市長は三十万都市の実現に向け、企業誘致にも熱心に取り組んだ。戦災で焼失した名古屋地方専売局浜松支局は戦後に浅田町に工場をつくり、たばこの製造を始めたが、昭和二十三年八月二十五日に西伊場町に名古屋地方専売局浜松支局の工場が竣工し、たばこの生産を開始した。この工場は日本専売公社の発足により、同二十五年七月一日には日本専売公社浜松工場となった。この広大な敷地は昭和十年ごろに鐘淵紡績会社の工場建設のために埋め立てられたものであったが、鐘紡の工場建設が実現しなかったため、荒れ地として放置されてきた。一時期は畑ともなったが、広大な土地の西半分を使ってたばこの工場としたのであった。坂田市政下の工場建設としては大規模なものであった。坂田市長が次に情熱を傾けたのは倉敷紡績会社の工場誘致であった。昭和二十四年の秋、倉敷紡績会社は東海地方に大規模な紡績工場をつくる計画を立てていたが、浜松・静岡・清水・島田の県内四市をはじめ、愛知県の名古屋・岡崎・大府なども倉紡の誘致に乗り出していた。いずれも工場を誘致できれば大きな財源になることと、就職難の解消につながることを期待していた。
 
【大日本紡 呉羽紡績 東洋紡績浜松工場 敷島紡績】
 浜松市の坂田市長と木全・小野江正副議長らは大阪の倉紡本社を訪ねて浜松誘致へ向けて猛運動を展開した。しかし、最終的に倉紡は愛知県安城市に工場を建設することとなり、浜松誘致は失敗に終わった。その後の大日本紡績、呉羽紡績の浜松誘致もうまくいかなかったが、東洋紡績の工場建設はなんとしても実現したかった。それは、戦前に東洋紡績の浜松工場が東伊場町にあり、戦災で焼失したままになっていたからである。従業員の住宅地さえ確保できれば誘致可能との感触を得て、場合によっては無償での提供さえ考えていたようだ。また、浜松市はほかの都市に負けないように十年間は免税にする条件も会社側に示していた。このようななか、朝鮮戦争勃発二日後の昭和二十五年六月二十七日、GHQは日本の綿紡績設備に関する一切の制限を撤廃、これを機に既存の業者も新興の企業も増設や創業が自由になった。東洋紡績が浜松工場の復元を決定したのは昭和二十五年十一月のことで、翌年の一月に起工式が行われ、七月には一部で、十月には七万錘の近代的な工場で綿糸の生産が全面的に開始された。東洋紡績浜松工場の復元が決まった昭和二十五年十一月には敷島紡績会社の浜松進出が噂(うわさ)されるようになった。坂田市長をはじめ、市議会、商工会議所などが中心となって市内の四ツ池(市営クランド、市営球場付近)などの候補地を選定して誘致に努めたが、工場建設には至らなかった。
 
【名鉄電車の浜松乗り入れ】
 工場誘致ではないが、坂田市長は将来の浜松発展のために名鉄電車の浜松乗り入れにも情熱を傾けていた。市長が名鉄電車の浜松乗り入れを言い始めたのは昭和二十五年一月、以後、豊橋市や沿線となる町村、名古屋鉄道とも協議を重ねてきた。昭和二十六年元旦の『静岡新聞』には県下の市長に抱負を聞くというシリーズが掲載されたが、坂田浜松市長は「名鉄乗入れを」と題して、「…五一年(一九五一年)における最大の仕事として名古屋鉄道会社と交渉し是非とも実現させる腹である、この鉄道建設の成功如何は将来の浜松発展に大きな影響のあるものである、これは夢ではなく本当の抱負だ」と述べている。ただ、この名鉄電車の浜松乗り入れは浜名湖架橋の経費や国鉄とほぼ並行の路線で採算性があるかなど、多くの問題点があった。この乗り入れ運動は岩崎市政下まで続くが、新幹線の建設決定により実現不可能となり、乗り入れを主張する人は少数となった。