[引揚者と復員者への援護]

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【引揚者】
 終戦を海外で迎えた日本人は六百四十万人とも六百六十万人ともいわれるほどの数に上った。軍人の復員や一般民間人の引き揚げは敗戦後から行われてきた。浜松市では昭和二十一年九月に葵町に、同二十二年には龍禅寺町にそれぞれ引揚者の収容所を建設している。
 
【引揚げ援護愛の運動】
 昭和二十四年六月二十七日にソ連引き揚げ再開第一船・高砂丸が舞鶴に入港した。この船で帰国した浜松市出身者は三人、浜名郡では河輪・和地・伊佐見・可美・中ノ町の各村それぞれ一名であった。その後も引き揚げは続いたが、同年六月二十五日現在、浜松市では応召軍人の未帰還者が二百四十五名、一般人の未帰還者も相当数に上り、新聞紙面には一日千秋の思いで肉親の帰国を待ち続ける留守家族の様子が数多く載せられていた。この高砂丸の舞鶴入港を機会に、浜松市では留守家族、遺族、傷癒者の慰安や激励などで明るい社会を築こうと引揚げ援護愛の運動浜松市協議会を結成し、愛の運動に乗り出した。一方、市の社会課でも、昭和二十四年十二月になって当年度に外地から引き揚げてきた八十名に米軍払い下げの衣料を無償で交付している。
 
【引揚者住宅】
 昭和二十五年三月二十五日には引揚げ援護愛の運動浜松市協議会の主催により在外同胞引揚げ促進西部県民大会が浜松市公会堂で開催された。この大会には静岡以西二市五郡の八百五十名の未帰還者の家族が集まって、「ソ連並に中共地区の同胞を直ぐ帰して下さい」と切々たる嘆願書の決議を行い、参議院引揚げ対策委員長、知事代理、坂田市長など各方面の代表者の激励のほか、最近引き揚げてきた人の現地報告などが行われた。一方、浜松市社会課では国庫補助を受けて昭和二十五年度に引揚者住宅を十戸建設し(完成は翌年三月)、格安の家賃で入居させた。なお、このころ龍禅寺町には龍南荘という引揚者収容施設があり、十七世帯が入居していた。この引揚者住宅は岩崎市政下でも数多く建てられることになる。