[浜松教導飛行師団]

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 浜松市周辺には本土決戦に備えて多くの部隊が配置されていた。その大概は『浜松市史』三や村瀬隆彦の論考(「本土決戦準備期県内配置の主要陸軍部隊の概要」『静岡県近代史研究』第十六号)等で触れられている。しかしながら昭和二十年(一九四五)八月十五日を含め、部隊解体に至る経緯は、敗戦による資史料の焼滅により一次史料による解明という点ではほとんど不可能な状態であるけれども、関係者による回想記が公表されており、そこでは一次史料では得られない事実を伝えている。以下、浜松陸軍飛行学校思い出会編集の『浜松陸軍飛行学校の思い出』という回想録により当時の様子を見てみる。
 
【浜松陸軍飛行学校 浜松教導飛行師団 ゲリラ戦】
 浜松陸軍飛行学校は浜名郡神久呂村にあったが、昭和十九年六月浜松教導飛行師団と改称され、浜松への空襲も激しさを増した二十年五月ころになると、各隊も分散して配置された。第一教導飛行隊は富山、第二教導飛行隊は隈庄(熊本県)、材料廠は浜名郡伊佐見村伊左地西に本部・発動機工場を移転させるなどしたため、「飛行場も淋しく」なっていた。二十年八月十五日の玉音放送について、ある兵士は次のように言っている。当日の午前中に上官から「『今日正午に重大放送があるから人員を集めてラヂオを聞くように』との指示があり、神ヶ谷の掘立小屋(爆撃を避けるため部隊の経理、本部の一部もそこで業務をしていた)に、浜松や東京方面から疎開しておられる方々と共に…放送を聞いた。雑音がひどくてよく聞きとれなくて皆でガヤガヤと大声で話し合っていたが、終戦ということで軍籍のある者は元の飛行学校第二格納庫やその付近に集合した」。そのうち本部の一士官が飛行班の自動車係の隊員等に、「水窪(浜松市天竜区水窪町)でゲリラ戦をやる」ので、「トラックをなるべく多く準備し資材・食糧を途中の横山(浜松市天竜区横山)」まで運送するように命じ、その際兵士らに階級章等身元を示すものは全部とっておくように命じた。ともあれ命令通り、物資は横山まで運搬した。ところが十七日になって、ゲリラ戦は中止と決まり、運んだ物資を横山に取りに行ったが、米が百五十俵なくなっていた。その日伊佐見国民学校裏の防空壕で主計少尉が自殺した。
 この件に関しては、『浜松市史』三も少し触れているが、日時の違いがある。それによると、海軍厚木航空隊の呼び掛けにより、飛行学校の有志軍人たちが決起したのであろう。しかし数日後最初の六十名の半分足らずとなり、一週間もたたないうちに自然解散となった。その中には自決した将校(二名)もあった。この計画を説諭のため、高松宮の来浜があった。
 また、伊左地の分散地で放送を聴いた材料廠の女性は、玉音の内容が充分理解できなかったと述べ、そのあと、ある上官が「切腹する」と軍刀を抜いたので、周りにいた人たちが慌ててやめさせたと言っている。
 別の女性は、「あの日上官の人達は今にも日本刀をぬいて死ぬ覚悟のようでした。…私達に向って死にたい人は切ってくれるとまで言っていました。でも幸いみんな死ぬのはいやだったと思います。自害を申し出た人はいませんでした。」と述べている(『浜松陸軍飛行学校の思い出』)。「神州不滅」のはずだった日本の敗戦という衝撃にかなり動揺した軍人もいたのである。

図2-5 浜松陸軍飛行学校