材料廠に勤めていた女性は、玉音放送を聞いて以後、「それまでは『国民一人になるまでも戦へ』との掛声に、苦しさも悲しさにも耐えて来たのに、心の支えを失った私はたヾ戸惑うばかりだった。この後占領軍に依り、どんな事態が起きるのか不安だった。そして八月二十九日付で全員が解雇された。」と述べている。その後、五人ほどの女子は残務整理のために呼び出され、十月末日まで部隊が保有していた物資を占領軍に引き渡すための員数表づくりに当たったのである。こうして行われた残務整理は上官の指示に従い、書類を焼いたり、埋める仕事でもあったという。
残務整理に当たった女性たちは、その間は毎日同じ献立であったが、「航空糧食の残りものや大きなやき豚のどんぶりご飯が昼食に出ておいしかった…」とか、「最後の日に軍人さんのすべてのもの、オーバー、毛布、軍靴、夏冬の洋服、ハンゴウに到るまで毛布につつんでいただきました。物のない時代だけにとても助りました」と感想を述べている。(『浜松陸軍飛行学校の思い出』)。