【陸軍航空廠浜松分廠】
飛行第七連隊は日中戦争の開始により、その飛行中隊をもって昭和十三年に飛行第七戦隊となり、大陸や南方に移駐することになった。代わって入った第五教育飛行戦隊も昭和十九年には熊谷へ移駐が完了し、飛行整備の部隊はなくなり、飛行機の外地戦線への補給業務が中心となり、陸軍航空廠浜松分廠となった。ここも昭和二十年二月十七日の空襲で本部建物を焼失してしまったので、市内上島地区の演習廠舎に分廠本部、兵舎の一部、工員寮、炊事場等をすべて移転した。さらに五月分廠本部を都田村(北区都田町)に移転した。また、作業隊の一部は富山飛行場(富山県倉垣村)に分遣して業務を行っていた。
当時三方原村に住み、浜松分廠に勤務していた鈴木千代松は「私の軍隊勤務」(『戦争と三方原』)で次のように記している。八月十六日夕方、富山にある飛行師団の司令部から持ち帰った飛行機分散場の設計書、工事契約書写を分廠長の命令ですぐに焼却したが、浜松分廠の空き地では工員たちが事務所にあったすべての書類を焼却していた。自分の机の中の私物、書籍まで全部焼かれてしまっていた。分廠では終戦処理要員を残して、同年八月十八日には兵隊のほとんどが召集解除となり、それぞれ復員し、勤労学生も学校に戻っていった。従業員も女子挺身隊も含めて八月二十七日付で解雇となったのである。