最後の入営兵

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 昭和二十年八月一日に同連隊に入営した大村藤四郎の『第一航測聯隊沿革誌』から八月十五日より復員までの様子をたどってみよう。八月十五日朝の点呼の時、班長から今日正午天皇陛下の放送があるので、新しい軍服に軍手を着装して講堂に集合せよとの指示があった。正午中隊全員が講堂に整列し、威儀を正して放送を聴いたが、初めて聞く天皇の声に身体の引き締まる思いがしたという。やがてあちこちから呻(うめ)き、すすり泣き、怒号等様々な反応があったようだが、戦いは終わったとホッとした表情の者もいた。
 同日のことを鈴木孝一(第四中隊出身)は、早朝訓令があり、小隊は正午十分前までに××神社の境内に集合すべし、と内容の分からないものであった(××は名称を忘れた)。ただ、その兵士の周辺では、新型爆弾で広島・長崎が壊滅的な被害を受けたとの情報は噂(うわさ)されていたので、それにかかわる作戦への通達ではないだろうか、との憶測が囁(ささや)かれもしたと言う。正午の放送は、雑音で聴き取れないところもあったが、戦争が終結した事実は受け止めることが出来た。しかし、本土決戦・一億玉砕と宣伝されていた中で聴いた、あの放送は真実なのかと、周辺の兵士たちと確かめ合った。その後、部隊長より今後のことは上部より伝達があり次第、逐次指示するとの指令があり、間違いないものと確信した。そして、「俺は生きて家に帰れるのだと云う実感が心の底から湧き上って来たことを今も忘れない」と記している(『一航測』第2号)。
 また、『一航測』創刊号によると、八月十四日午後「ポツダム宣言受諾、敗戦決定」の航空総軍司令官からの軍機電報を受領したので、予定されていた活動のうち中止になったものもあった。そして、八月十五日の正午、少年飛行兵・召集兵等は定員外として即時帰郷を命じられた。
 八月十六日には敗戦という結果を受け、国家に殉ずる若い将校もいた。妻子四人を道連れに付近の墓地で自尽したのである。十七日第四中隊の兵士は、柩(ひつぎ)に納められた将校一家の遺体を村はずれの火葬場で処理に当たった。その最中、夜半を過ぎたころ召集兵の第一次帰還に選ばれたとの伝達を受け、即刻その場を抜け、駐屯地に戻った。暁に近いころ、日野の仮兵舎を出発した軍用トラック二台にすし詰めされた復員兵と一緒に一路原隊の浜松に向かった。その際通信網は麻痺し、様々なデマが交錯し大変心配しながらの道中だったが、何事もなく無事に原隊に到着した(『一航測』第2号)。
 この部隊でも玉音放送の後、一部に不穏な動きがあった。大村藤四郎著『第一航測聯隊沿革誌』によれば八月十七日の午後、先の「最後の入営兵」の隊は、班長から奇妙な命令を受けた。「占領軍は横浜、東京に上陸を始めた 今夜半から明朝にかけて、十二粁はなれた八日市の飛行場に敵空挺部隊が降下するので迎撃する いつ出動命令が出るか判らんので準備をしておけ」と言い、銃は十人に一挺しかないので竹槍を用意し、柄先をあぶっておくこと、と指示があった。けれどもあまりに馬鹿げていたので、ほかの整理をしていたら、兵長が竹槍を持ってきて、上官の命令が聞けないのかと槍先で腹をチクチクつっついた。その晩出動命令は発動されず安心したと言う。後日聞いた話では、第一中隊に出動命令が出て、八日市飛行場の見える所まで行軍し、帰って来たそうである。すでに部隊の指揮命令系統は混乱していたように思われる。十八日八時、第四中隊の解隊式が行われ、隊長の訓示は兵や地元の人達に感銘を与えたと言う。その日半数の人が復員して行き、残務整理に当たった。大村は、八月二十二日持ちきれないほどの土産を持って復員した。