赤穂への移動

69 ~ 70 / 900ページ
 また、犬塚一郎著「『浜松』防空隊の最後」(『高射砲兵戦史』昭和六十年版)によれば、「最後の人員出発は…八月十五日早朝、教導隊は…兵営内の清掃を入念にやって、各中隊ごとに『二俣駅』に向かった。午前、貨車積載中、『本日の正午、天皇陛下の重大放送があるから、よく聞け』というラジオ放送を耳にした。…十二時少し前に『二俣』駅前に赤山隊長を中心に整列して、〝終戦の詔勅〟を聞いた。思わず、悔し涙が流れ落ちた。終戦は知ったが、すでに部隊の大部分は『赤穂』に到着しているので、夕刻予定どおり軍用列車に乗り込み全員出発した。」翌十六日「…夕暮れの道を『赤穂城』に向った…この日は、さすがにグラマンは飛んでこなかった。」と記されている。
 その後、兵器類を米軍に引き渡すため大砲は照準装置等を取り外し、そのほかのものは使用不能の処置をして、相生駅(兵庫県)に集結し引き渡しの準備を終えた。八月三十一日召集解除となり、陸軍高射学校は消滅した(『高射砲兵戦史』・『陸軍高射学校の想い出』)。