[護古部隊と戦車部隊]

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【第百四十三師団護古部隊 独立戦車第八旅団 戦車第二十三連隊 戦車の爆破】
 昭和二十年(一九四五)八月ごろ市域やその周辺には、米軍の上陸を想定して多くの陸軍部隊が展開していた(村瀬隆彦「本土決戦準備期県内配置の主要陸軍部隊の概要」『静岡県近代史研究』第一六号、『浜松市史』三等)。第百四十三師団(兵団符号を護古と称したので護古部隊と言い、引佐郡井伊谷村に師団司令部があり、同郡麁玉村宮口・同金指町・浜名郡竜池村等に分駐していた)、独立戦車第八旅団(司令部は引佐郡三ケ日町、同東浜名村都筑・同三ケ日町日比沢等に展開していた)等で、兵隊は学校・寺社・集会場等に多数常駐していた。後者の属する戦車第二十三連隊は本土防衛のため、昭和二十年六月に大陸から移駐、本部を引佐郡都田国民学校に置き、都田・宮口辺りに部隊を展開していた。敗戦後、戦車は米軍に引き渡され、同年十二月、十五両は爆破された(『三方原歴史絵画展』・『戦車第二十三聨隊』)。
 戦車の爆破について、第百四十三師団参謀部付将校の記憶では、十二月中旬まで井伊谷村に通ったが、三方原台地の一角に集結させられた中型戦車群をダイナマイトで爆破する音が井伊谷村まで響き渡っていたと言う。同師団の司令部は井伊谷国民学校に置かれていたので、玉音放送はその校庭で聞き、その日から三日間位、校庭で書類を焼却したと言う。また、その人物は敗戦の少し前、この校庭で富塚付近に落下傘で降下したB29搭乗員の米軍将校を取り調べた。二十二歳の若者で酷い火傷のため下半身が焼爛(ただ)れていたが、訊問に対して不敵なヤンキー魂で答えていたことが記憶に残っていると記している(内山信一著『思い出草』。