[刀剣・銃器の回収]

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【民間の刀剣所持禁止】
 GHQは、昭和二十年九月二日旧日本軍の武装解除・解体だけでなく、民間人の武器についても蒐集することなどを命じた。それを受けて、同月十九日内務省から民間の刀剣所持禁止が通達された。同月二十七日磐田郡二俣警察署長、二俣町長から町内会長・隣保班長に出された通知によると、武器の種類を、「イ軍用銃砲(小銃、拳銃、重軽機関銃等)、ロ拳銃、短銃、仕込銃、ハ刀剣(軍刀、指揮刀、銃剣ノ類、其ノ他一般ノ刀剣、但シ刃渡九寸五分以下ノ匕首ヲ除ク、美術的、骨董的価値アル刀剣ハ警察署ニ登録シ提出ノ用意ヲナスニ止メ中央ヨリ改メテ指示アル迄一応蒐集ヲ見合セマスガ個人ガ勝手ニ認定シナイデ必ズ一応警察署ニ提出シテ下サイ)、ニ仕込刀剣、ホ軍用火薬」と分けている。その中で数の最も多いと思われる刀剣は、美術的価値のあると思われる物もひとまず届出させ、追って指示を待つようにと注意している。これを見ると、当時民間に出回っていると考えられるすべての武器を回収するという意図が分かる。また、提出の範囲は個人だけでなく、学校・公共団体等も含まれていた。ただし、陸海軍将校・警察消防官吏・刑務官等職務上所持するものは除くとある。注意事項として、所有者がそれらを隠匿、または未提出の時は、直接連合国官憲の強制的な回収があるとしている。提出期日は十月五日までで、二俣警察署に提出し、その後連合国側に引き渡す手はずとなっていた(『静岡県警察史』下巻七八六頁)。
 浜松市でも当然指令が出されたが、提出されたものが十分ではなかったので、再三指令が出されたのだろう。翌二十一年二月十二日、「民間武器取締強化ニ関スル件」と題する通知が各町内会長あてに出されている。その中で、「警察ハ日本人ノ武器所有皆無トナル迄全警察機関ヲ動員シ押収獲得」するので、皆に通知を徹底してほしいと言っている(『新編史料編五』 二軍事 史
料 30)。こうした政策により、市内でも数多くの刀剣・銃砲類が回収されたと言われている。けれども、なお、GHQは不十分と見ていて、同年七月御殿場署が管内町村長あてに出した通達によると、「無理解なる民間一部の者にありては武器を隠匿又は秘蔵し、之を法外なる価格にて進駐軍将兵に売却し、又は不良青少年が之を窃取して闘争の用に供し、若は兇悪なる犯罪の用に供したる事例、全国的に頻発の情勢に在る」ので、武器提出を徹底せよ、と言っている。もし、提出期限後に発見された場合は、「三年以下の懲役、若は禁錮又は五千円以下の罰金」に処せられるとしている(『静岡県史』資料編 21)。
 この政策が強力に推進されたのは、当時の進駐軍指導部が本国の文化人類学者に従って日本国民が刀を武士道精神のシンボルと見なし、これを国家主義や国粋主義のよりどころとすると判断していたためであり、このシンボルを各家庭に温存するなら再び軍国主義思潮が復活するであろうと考えたからである(『静岡県史』通史編6 四六二頁)。
 ここで没収された主な武器の数は、藤木久志『刀狩り』によれば、拳銃一万一九一六、小銃三九万五八九一、猟銃三八万四二一二、軍刀二三万九一六〇、日本刀八九万七七八六、槍類一四万四四〇七とある(昭和二十一年三月末)。
 
【日本刀の没収】
 右の軍刀の中には日本刀が含まれている可能性もあるから没収された在来の日本刀はおよそ百万振にも上った。『朝日新聞』は文化庁の美術工芸課の談として、進駐軍の刀狩りによって全国で三百万本の日本刀がなくなったと報じていた。豊臣秀吉の刀狩り、明治初めの廃刀令は、ともに武装解除令ではなく、マッカーサーの刀狩りは、なんとか武装解除と言えそうだとしている(藤木久志『刀狩り』 ―武器を封印した民衆―、岩波新書)。