【浮浪児 戦災孤児】
昭和二十一年八月二日午後十一時県警察部は、県下主要駅において浮浪児の保護取り締まりを実施した。これは最近戦災孤児等で停車場の待合室や公園のベンチを塒(ねぐら)にする者が増加したからであった。保護された浮浪者は七十九名、そのうち浜松署は七名を保護した。
翌日の記事によると、保護された者の大半は戦災で父母を失い、兄妹の安否もわからないという孤児で、食糧難に加え継母の虐待に無断で家を飛び出し、野荒しや駅の待合室で旅客の弁当殻をあさって飢えをしのいでいたという孤児も五名(うち女子二名)いた。衣類は満足に着ている者は一人も無く、破れたパンツで半裸体の者、丸裸の者、一年あまり入浴したことのない者もいた。栄養状態の極めて悪い者もいて、駅から収容所まで歩くことが出来ずリヤカーで運ばれる者もいた(『静岡新聞』昭和二十一年八月四日、五日付)。
また、八月三日零時より浜松署は全市にわたって、浮浪児調査を実施した。調査場所は駅以外に神社仏閣、一般民家の軒先等で、そこに寝ていた十三名を保護検束した。その内全く身寄りの無い者七名を県立三方原学園に収容した。浜松署は近く第二次調査を行い、市内から浮浪児を一掃するとしている(『静岡新聞』昭和二十一年八月四日付)。
浮浪者対策として、市は鴨江病院内に救護所を設置し、二十一年十一月ころには十一名を収容していたが、五社神社境内や露店街、夜は遠電ビルでうろつく姿に市民は眉をひそめていたので、当局は救護所の増室計画を立てていた(『静岡新聞』昭和二十一年十一月二十七日付)。
昭和二十二年六月十六日県警察部は、県下一斉の浮浪児及び浮浪者の保護取り締まりを実施し、報告の無い二カ所を加えると浮浪児は五十人に上ると予想している。彼等は市内葵町の葵寮に保護収容される見込みと記されている。浜松署が実施した取り締まりでは浮浪児十五名を保護した。うち三名は婦女子であった。その中で最年長の十七歳の少女は駅待合室で保護されたが、取り調べに当たった者は彼女らについて、年端もゆかぬ少女であるが、すでに大人も及ばぬ社会観さえ持ち合わせている者が大部分だと話している(『静岡新聞』昭和二十二年六月十七日付)。