【警防団 防護団】
戦争末期米軍の二十七回にわたる空襲と艦砲射撃で、市街地の大半は焼失し、警防団の被った人的被害も大きなものがあった。ところで、警防団とは太平洋戦争開戦前の昭和十四年(一九三九)に、これまであった消防組と都市を中心に防空業務に当たっていた防護団が合併して出来た団体で、警察の指揮の下、消防・警報・灯火管制などの業務を行っていた。この警防団の敗戦後の活動の様子をいくつか挙げてみよう。昭和二十年十月二十七日十三時、五月二十九日以来の爆撃で犠牲となった第一分団副分団長以下九柱の合同団葬を成子町大厳寺で執行した(『静岡新聞』昭和二十年十月二十二日、二十八日付)。これは、五月二十九日以降警防団として葬式を行う余裕がなかったためであろう。
次に伊佐見村警防団第四分団の動向を第四分団の『沿革史』から見ると、目立つのは、村出身の兵士の遺骨奉還と村葬の実施である。遺骨奉還は、昭和二十年九月六日・同八日、十一月六日、十二月十三日と四日あり、それぞれ何人かの団員が立ち会い、亡くなった村民の遺骨を迎え、九月十八日(二十四名)と十二月十八日(十七名)に二度、四十一名の葬儀を行っている。
【出初め式】
昭和二十年十二月一日は火防デーで役員が集合し、器具点検等を実施し、本部からの巡視があった。同月九日警防団改正について分団長会議があり、各分団員の定年を三十八歳とするも、定員を確保できない分団もあり、第三分団は四十歳、第五分団は適宜とする案でまとまった。翌日第四分団では総会を開き第四分団の定年は三十八歳とすることを決めた。また、翌年一月実施の新役員選挙は皆の了承でなぜか取りやめとなり、その場で九名を選出している。十二月十一日新旧役員の事務引き継ぎをしている。その時の役員は分団長・副分団長、係は会計・水係・火先・警戒・指導・担架・喞筒の七係であった。十二日役員らは事務の整理を行った。十五日は夜警実施に備え、詰所の準備に当たり、ストーブ用燃料のオガコを牛車二台分購入(代金五十円)し、ストーブの取り付け準備は完了した。二十七日夜九時五分村内で火事があり、同十時三十分ごろ鎮火した。原因は焼籾糠(やきもみぬか)の不始末であった。翌日の朝全団員で昨夜使った器具の手入れをしている。昭和二十一年一月三日午前七時半信号で同五日の出初め式の予行を行い、五日午前九時より出初め式を実施、当日の部隊教練は行わなかった(『新編史料編五』 二軍事 史料44)。そのころ警防団はまだ警察の指揮下にあり、警察自体がGHQから民主化を強く指導されていた事情もあり、部隊教練は軍国主義的残滓(ざんし)と指摘されることを恐れ、警防団に指示していたと考えられる(『静岡県史』資料編21)。GHQは警察の民主化とともに警防団の改革も考えていた。
同月五日浜松市警防団も浜松駅前広場で警防始式(出初め式)を実施した。終了後第二会場を文化劇場に移し、活動写真を観覧した(『新編史料編五』 二軍事 史料45)。参加者は平和の到来を実感したものであろう。
【天竜川の大洪水】
それ以外の活動として、昭和二十年十月五日天竜川の大洪水があり、浜名郡芳川村金折で流失家屋十一戸、行方不明者二十四名を数える大災害があったが、(『新編史料編五』二軍事 史料55)、そこでも警防団員が活躍した。飯田・芳川両村警防団員(五名)は出水に際し挺身(ていしん)敢闘した功労者として、同二十一年一月二十九日静岡県警察部長から功労章を授けられた(『静岡新聞』昭和二十一年一月三十日付)。