【食糧難】
昭和二十年の米の収穫量は前年比六十六・八%の五百八十七万トンにとどまり、大正・昭和期最大の凶作となった。また、漁獲高も昭和期最低を記録、深刻な食糧危機が到来した。市内の多くの家庭では、農家の一部は別として麦飯はいい方で、水団(すいとん)や雑炊、さつまいもやじゃがいもなども主食並みに食べなければならなかった。このようなことから、学校に弁当を持参できない児童が増加し、学校によっては午前中で授業を打ち切るところも出てきた。食糧難は昭和二十二年の九月になっても続いていたようで、「食糧難で授業は午前中にすべきか」(『新編史料編五』 三教育 史料20)の中にその実態が詳しく報告されている。「お弁当に困る」、「米の配給がない」、「正当なる収入による生活者には到底弁当を持参することは不可」との声が多かった。一方で、学力の低下や進度の遅れを指摘し、午後まで授業をしてほしいとの意見も多く、学校ではその対応に苦慮していた。こうした状況に対応するため、昭和二十二年一月から学校給食が開始されるのである。