[墨塗り教科書と『くにのあゆみ』]

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【墨塗り教科書 連合軍関係指令綴 『くにのあゆみ』】
 教科書について、具体的に削除や訂正の指示が出たのは昭和二十年九月二十日の文部次官通牒であった。浜松においては九月二十七日に西遠地方事務所長より「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件通牒」という標題で国民学校長と青年学校長あてに通知された。国防や軍備を強調する教材や戦意高揚に関する教材などは全部あるいは部分的に削除することを求め、一例として国民学校後期用国語教科書については、「ヨミカタ二 十六 兵タイゴツコ」、「よみかた四 十五 にいさんの入営」などを挙げている。昭和二十年九月から始まったいわゆる「墨塗り教科書」は占領軍の指示で始まったものではなく、当初は文部省の通牒によって行われたのである。これがいわゆる第一次墨塗りであった。その後、昭和二十一年二月には教科書の修正状況、修身・地理・日本歴史の停止に関する事項、学校に於ける神道弘布禁止に関する事項などの実施状況を隣接校同士の学校長に相互視察をさせている。三月に入ると、二十二日付で第二次の国民学校後期使用図書中削除修正箇所ノ件(『新編史料編五』三教育 史料9「墨ぬり教科書の指示」参照)が出されたが、これがいわゆる第二次墨塗り教科書で、この時は国語のみでなく算数でも削除と修正箇所が通知された。なお、この通達ではほかに、教師用指導書ノ発行供給ノ件と昭和二十一年度使用教科書ノ件も記されている。こうして昭和二十一年度から発行された教科書は新聞紙大の用紙に印刷し折り畳まれたもので、分冊で発行された。
 飯田小学校に保管されている「連合軍関係指令綴」によれば、地理の授業の再開が通知されたのは昭和二十一年八月二十五日であったが、新しい教科書が到着してから再開するように指示している。歴史の授業再開は『くにのあゆみ』が発行された後の同年の十一月以降のことであった。これまでの国史の教科書は天照大神、神武天皇、日本武尊から始まり、天皇中心のいわゆる皇国史観で記されていた。これに対し『くにのあゆみ』は、石器時代や農業の始まりなどから始まり、人々の動きも数多く取り入れ、民主主義の時代に合うように作られた。ただ、あまりにも大きな変化であったため、これを教える教師にも戸惑いがあったことから、十一月九日に曳馬国民学校で『くにのあゆみ』の教科書についての講習会が開かれ、今後の歴史教育をどのように展開するかが話し合われた。

 


図2-10 墨塗り教科書 墨塗り前と後


図2-11 「連合軍関係指令綴」 飯田小学校