[戦災による移転と学校再開]

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【浜松工業専門学校 電子工学研究施設 テレビジョン】
 浜松工業専門学校の戦災被害は昭和二十年二月を第一回とし、六月の浜松大空襲まで四回にも及び、ほとんどの校舎を焼失した。学校では六月十九日に富塚町にあった寄宿舎の西寮に本部を移転して事務を開始した。終戦後の九月、追分町にあった旧千葉防空学校浜松分教場(現在地)の建物すべてを使用することが許可されたのでここで授業を開始することとなった。九月十五日には延期されていた昭和二十年度の新入生の入学式が五カ月遅れで挙行され、同十七日から授業が始まった。ただ、授業は施設の関係からここだけでなく、興誠航空工業学校(二十年十一月から興誠中学校に改称)や追分国民学校での分散授業という形で再開された。教職員や学生、卒業生などはいち早く学園の復興に立ち上がり、昭和二十年九月二十日には藤岡浜松市長を会長とする浜松工業専門学校後援会が結成され、翌年には学校復興に協力する父兄会も作られた。この二つの会を中心とする運動によって建物の補修と第一期の新築工事が竣工したのは昭和二十二年十月であった。また、戦前からテレビジョンの研究で世界をリードしてきた電子工学研究施設(旧電視研究室)は、三立工業(今の三立製菓)の建物を借用して研究を続行、昭和二十二年二月五日に理工学研究所として発足し、四月に焼け残った浜松工業専門学校の鉄筋コンクリートの校舎に引っ越した。そしてこの年の十月にはテレビジョンの公開試験をするまでに研究は進んでいった。学科については占領政策により昭和二十年十二月二十日に航空機科が廃止され第一機械科に編入された。また、修業年限は昭和二十一年二月に三年制と元に戻され、新しい体制でスタートすることになった。