大正デモクラシーの盛んな時代の大正十一年十月に創立が決定し、翌十二年四月に第一回生を迎えた浜松高等工業学校は、初代校長関口壮吉のスポーツの奨励や文化活動に意を注いだ自由啓発主義の教育方針が受け継がれてきた。戦後の教育民主化の動きは全国の大学や専門学校にも及び、浜松工業専門学校(浜松高等工業学校が昭和十九年に改名)も例外ではなかった。浜松工業専門学校に学生の自治会が結成されたのは、昭和二十一年三月五日のことであった。結成式は興誠中学校で挙行され、次いで学生大会に切り替えられて学校の復興問題を討議した。そして、「吾等が総意に依る自治的活動の下に自由.剌たる校風を顕揚し師弟一丸浜松工専の再建に邁進せん事を期す」との決議を採択した。これを受けて学生たちは机や椅子を求めて地方事務所に陳情に行ったり、図書の収集に努めたりした。この自治会が取り組んだ行事に復興記念祭があった。これは昭和二十一年十月十六日から同二十七日まで繰り広げられた。初日と二日目は花自動車を仕立てて音楽を演奏しながら市内を巡回して復興記念祭の開催を告げ、四日目からは校内を開放しての写真展、科学作品展、美術展など様々な催しが行われた。最終日には国民学校や中等学校の児童・生徒が参加しての音楽コンクールや運動会など幅広い催しとなり、多くの市民が駆け付けた。これは浜工専の復興記念祭ではあったが、その規模は大きく、新しい科学や文化、芸術を市民に紹介するなど、戦後の文化の創造に果たした功績は計り知れないものであった。特に、この復興記念祭で開催した軽音楽と独唱の会と日本交響楽団(後のNHK交響楽団)の演奏会は画期的なことであった。この後、浜松工業専門学校の講堂で昭和二十三年五月に藤原義江歌劇団を招いて行ったオペラコンサートのことが『新編史料編五』 九文学 史料29に出ているが、終戦直後の音楽文化は浜松工業専門学校から始まったとも言えるのである。羽生紀夫は浜松工業会(浜松高等工業学校、浜松工業専門学校、静岡大学工学部の校友会)の機関誌『佐鳴』第50号に、「…浜松市民の虚脱状態を呼びさませた事は、今でも、当時を知る人々からあれで、市内に活気がよみがえったと云われ、うれしい想い出であります。」と書いている。
猛烈なインフレと食糧不足、人々は生きていくのが精一杯の状況であったが、学校は終戦とともに大きく変わってきた。このころの学生の様子を平尾一成は『佐鳴』第50号に「終戦と同時に長い間鎖されていたすべてのものが、一度に開放され、今までの軍事教育では想像もつかない自由な、開放的生活が、我々の若き青春時代と交錯して展開されていった。テニス・野球、バスケットボール等、長い戦争で見たことも、やったこともない運動のクラス対抗とあっては、クラス全員力を合せて戦う方法しかない。…又西洋音楽など、未だ見たこともきいたこともない時代であったが、日本フィルハーモニーによる第5交響曲の演奏があると云うのではじめて聴きに行った。然し、長い暗黒の世界から、急に明るい世界に出たかの如く、ただ驚くばかりであった。」と記しているが、このような状況は学校の外でも見られるようになったのである。
図2-13 浜松工専の復興記念祭