[すし詰め教室と二部授業]

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【すし詰め教室 二部授業 相生小学校】
 表2-12に見るように、昭和二十三年当時の各小学校の児童数は、戦災で疎開していた児童が戻ってきたことから大変多かった。また、校舎の建築の遅れから教室数が不足し一学級あたりの児童数は今では考えられないほどの人数であった。一学級当たりの児童数が最も多かったのは北小学校で六十七人、次は元城小学校の六十五人であった。ただ、これは平均なので、学年によっては浅間小学校の一年生のように七十人を数えた学級もあった。また、三方原小学校の三年生の学級(昭和二十二年度)は七十一名を数えた。まさにすし詰め教室であった。このような状態は学校によってはこれ以後も長く続き、昭和二十八年の調査では県下の小中学校の一学級平均は六十四名であり、教育効果が上がらないとか、教員の過労が問題になっているなどと報道された(『新編史料編五』 三教育 史料33)。
 二部授業は先の高砂小学校の例を挙げたが、まだ多くの学校で行われていた。相生小学校の二部授業が解消したのは昭和二十六年の二学期からであった。当時の『中部日本新聞』の見出しは「新校舎バンザイ!浜松相生校・二部授業の悩み解消」の見出しの下、二階建て四教室の増築校舎が落成して悩みの二部授業が解消すると記している。記事は続けて、校舎の建築が進み、昭和二十七年三月までに高砂・北・東・南・萩丘の五小学校でも二部授業が解消されるとしている(『新編史料編五』 三教育 史料31)。

表2-12 昭和23年度小学校の児童数
出典:『浜松市勢要覧』昭和23年版