[学校給食の開始]

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【学校給食 ララ 東小学校】
 戦後の食糧不足が深刻となり、昼食を持参できず、昼休みになると教室をそっと抜け出す児童・生徒が出てくるほどになった。このため各地で学校給食が開始されるようになる。浜松市の場合は、昭和二十二年一月二十日から市内十八校(児童数一万七千六百四十一人)で一週間に二回副食物を支給するという方法で始まった。当時の新聞によれば、第一日目の給食は約三分の一の児童が受けたようである。大釜や食器類が不揃いのため各学校ともだいぶ混乱したが、支給された副食は児童一人あたり鯨肉五十グラム・野菜三十五グラムと記し、児童たちは「これは素敵だ美味い美味い」と言ったと出ている。戦前に給食を実施したことのある追分小学校は準備が早く、四百名分の食器が整えられ、燃料獲得のために児童たちが枯れ枝や松笠などを拾い、家庭の協力なども得て実施した。給食の具体的な内容は、鈴木良の「教育残念記」によれば、昭和二十二年から一年間に給食に出たものは、さけの缶詰、くじらの缶詰、りんごの乾燥、ミルク、ジュースと出ている。また、北小学校で寒風にさらされながらあつい鮭の汁を啜(すす)ったことも記している。この給食はララ(LARA=アジア救済連盟)の援助によるもので、鈴木はアメリカの厚意に感謝しましょうと記している。ただ、濃縮された蜜柑ジュースを水で割らないで飲ませたり、てんさいの乾燥野菜をそのまま出すなど、説明書の英文が読めなかったがための失敗もあったという。東小学校では昭和二十二年九月から給食回数を従来の二回から四回に増やし、副食とともにミルク(脱脂粉乳)給食も開始した。当時学校給食を担当していた松本加代は『浜松の戦後教育』に「岩のように固まった脱脂粉乳をナイフで削ってすりこぎでつぶし、砂糖(無償支給)を加えて沸かして、おわんに一ぱいずつ飲ませました。無償支給ということで大変厳しく、進駐軍が時々在庫を調べにきました。」と記しているが、給食担当者の苦労がよく分かる。