[新教育の推進]

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【新教育 鈴木良 教育残念記】
 鈴木良は昭和二十三年四月に県教育研究所の指導部員に就任したが、五月四日に積志小学校で開催された校長会でその任務について、学校への訪問指導、教育研究、報告事務の三つを挙げている。そして、民主教育の徹底と救国教育の実現が使命だとし、学校訪問の性格を戦前の視学官と比較して、目付役から助言者へ、検閲員から発見者へ、指導者から相談相手へ、視学官から友達へと変わったことを強調している。そして、五月になると十七日の北浜小学校、二十日の和田小・中学校、二十六日の小野口小・中学校、二十八日の積志小・中学校と学校訪問が開始される。そして「教育残念記」に記された訪問記録は北浜小ではノートに十八ページ、積志小では十五ページにわたるなど詳細を極めている。北浜小では、教師中心の教育から児童中心の教育に変わったことを教室に飾られた作品や学習形態(一斉学習、分団学習、独自学習)で見届け、これまでの国家による教育計画の押し付けから地域に則した教育の大切さを強調している。和田中学校では学習の仕方や学習の手引きが作られていること、また、積志小では「躾・訓練に本年の主眼をおいて着々堅実な歩みをすゝめてゐることが授業面にもよく見られた」とか、教師については「新旧両教育を検討して真に日本の現状に則した民主教育の徹底を期せんとする熱意がうかがはれる」と記している。六月には十七校を訪問、七月にはホーナー課長に随行して多くの学校を訪ねているが、そのいずれもに詳細な記録があり、これによって当時の新教育の状況をうかがうことが出来る。また、各学校から出されている質問事項には、「躾の厳しさと寛容さはどの程度がよいか」とか、一年生でべちゃべちゃおしゃべりしていて困る時、一言でもって押さえ付けることはまずいと思うが、何かよい方法はないかなど実に多くのことが記され、新教育の悩みもうかがわれる。