【『米国教育使節団報告書』 教育刷新委員会 新制中学校】
昭和二十一年四月に発表された『米国教育使節団報告書』には「…われわれは『下級中等学校』を三年間または満十六歳まで義務教育にするようにすすめる。この『下級中等学校』は無月謝にすべきである。…この学校は事情の許す限りなるべく早く男女共学にするのがよい。」と記されていた。これを受けて同年八月に設置された内閣総理大臣所轄の教育刷新委員会は十二月に学制に関して重要な建議を行った。これには国民学校初等科に続く教育機関について、修業年限三カ年の中学校(仮称)を置くこと、中学校は義務制とすること、全日制とすること、男女共学にすること、独立校舎とすること、校長及び教職員は専任とすること、各市町村に設置すること、昭和二十二年四月から実施することなどが記されていた。そして先述のように昭和二十二年三月三十一日に教育基本法及び学校教育法の成立を見、四月一日から六・三制教育の目玉として中学校(当時はこれまであった中学校と区別する意味で新制中学校と呼ばれた)が誕生したのである。ただ、制度は出来たものの、新制中学校教員の人事異動の新聞発表は四月十日、辞令交付は同十一日であり、校舎が出来ていない学校が多かったため、入学式や授業開始は大幅に遅れた。また、新制中学校開校に当たって教員不足は深刻で、豊西中学校初代校長の小杉撰次は『笠井中学校四十年の歩み』に「足りない先生はすべて校長がさがしてこなければならなかった。…五十から五十五歳ぐらいの農業をしている人をようやく見つけて、こんこんと頼んできてもらい数学を教えてもらった。だが、英語の先生はいくらさがしてもなかった。…バレーボールが得意な人にも先生になってもらって教えてもらった。このように努力しても、結局三~四人足りないまま開校した。」と述べている。東部中学校では職員初会合が四月十七日、入学式は四月二十一日で、翌日からの分散授業を決めたという。八幡中学校は四月二十二日に開校はしたものの、校舎がなかったため、同二十四日に興誠中学校を借用して入学式を行い、同二十八日に授業を開始した。与進中学校は与進小学校を仮校舎に四月二十二日に開校、授業を開始した。南庄内中学校は四月二十三日開校、小学校の校舎を借用して五月一日に授業を開始した。このように新制中学校の多くは、四月下旬から五月になって授業を開始したのであった。