【進学 就職 曳馬中学校 南部中学校】
六・三制の発足は農村部の親にとって波紋を呼んだ。これまで高等科に行くことでさえ上出来であったのに、もう一年間も学校に出さなければならなくなったのである。不平や不満も一部にはあったが、世の中の進歩はあまりにも早く従わざるを得ない状況になっていた。新制中学校が発足した昭和二十二年、笠井中学校の学級数は一年が三、二年が二、三年は一という状況だった。これは国民学校卒業後、中等学校(旧制の中学校・高等女学校、実業学校)などへ行った生徒が多かったためで、翌年三月に新制中学校を初めて卒業した三十一名のうち進学は一名、就職は三十名という状況だった。新制中学校発足時に一年生で入学した生徒が卒業するのは昭和二十五年三月、進学率などはこの年から現在と比較することが出来る。曳馬中学校は当時は都市部と農村部が半々の学区であったが、昭和二十五年三月に卒業した生徒は二百十七人、高校へ進学した生徒は七十六人(三十五%)、就職と家事従事者は百四十一人(六十五%)であった(『浜松の戦後教育』)。同じく都市部と農村部が半々の南部中学校で、昭和二十八年三月に卒業した生徒は四百四十四名、このうち進学した生徒は百六十六名(三十七%)、就職と家事従事は二百七十八名(六十三%)であった(『南中新聞』)。浜松市全体の進学率が五十%を超えるのは昭和三十年代中ごろになってからである。