[新制高等学校の誕生]

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【新制高等学校】
 昭和二十三年一月十一日に来浜した文部省の永江政務次官は記者団に、「中等程度の学校は官公私立を問わず全部そのまゝ高等学校に昇格させる」と語った。静岡県はこの方針は堅持して、その多くは単独で、一部では幾つかの学校を再編して新制高等学校にすることにした。そして同年三月二十三日に県立の新制高等学校の名称が発表された。浜名郡笠井町にあった笠井高等女学校と北浜村の北浜高等女学校が昭和二十二年七月に合併、県立の浜名高等女学校となり、昭和二十三年四月に県立の浜名高等学校となった。これは再編の一例で、校名も共学の建て前からほかの県立高校と同じく「女」の名称を抹消した。そして同一の地区内に複数の高校が併置されている所では学校の誕生順序に第一、第二の呼称が付加されることになった。浜松では浜松第一中学校が浜松第一高等学校に、浜松第二中学校が浜松第二高等学校になった。浜松工業学校は浜松工業高等学校に、浜松商業学校は浜松商業高等学校に、浜松農蚕学校は浜松農業高等学校となった。これらの三つの実業高校にはそれぞれ定時制課程が置かれることになった。浜松市立浜松高等女学校は「女」を抹消して浜松市立高等学校となり、女子商業学校を併合して商業科を置いた。私立の中等学校のうち、誠心高等女学校と信愛高等女学校は「女」を抹消して、誠心高等学校、信愛高等学校とし、西遠高等女学校と浜松女子商業学校は「女子」を入れて、西遠女子学園高等学校と浜松女子商業高等学校とした。ただ、私立の場合は、信愛高等女学校の中村春次郎校長が「男女の特質を無くしたくない。…私の気持では当分の間、女子は女子だけでやつて行きたいと思つてゐる。」(『二中新聞』第10号)と語っているように校名は「女」を取ったものの女子だけの高校となった。興誠中学校はそのまま興誠高等学校となった。旧制の中学校から新制の高等学校に切り替わると旧制の四年生になる生徒が高校一年生に、五年生になる者が高校二年生となり、旧制中学校卒業生中希望するものが新制高校三年生になったり、卒業して進学したりした。昭和二十三年四月の入学生は旧制の四年生が存在し、また、新制中学校卒業生で高校進学者が極めて少なかったこともあり、定員を超えれば中学校からの報告書をもとに選抜することになった。なお、これらの学校では移行期間には併設の中学校を置いていた。
 新制高校誕生に際して生徒にとって最も切実で、感情を左右する問題は高校名であったようだ。浜松第二中学校の『二中新聞』にはこれについての記事がある。それによれば昭和二十三年三月中旬の時点でも学校側は校名を決めておらず、生徒が要望した高校名が新聞にいくつか出ている。第一位は浜松第二高等学校、続いて浜松高等学校、浜松西山高等学校となっている。結局は静岡や沼津、磐田のように第一、第二の名称を付け、浜松第二高等学校となった。ただ、これが序列につながるのではとの意見も出て、わずか一年で変更となる。『浜松北高百年史』によれば、「従来の第一、第二というのは学校の格差を強める恐れありとの進駐軍の指示により改めようとして…」とある。昭和二十四年三月十八日付の『静岡新聞』には、高校の再配置計画の中に、仮称として浜松一高を浜松曳馬野高と、浜松二高を浜松西陵高と記している。昭和二十四年四月一日から県下の○○一高、○○二高などはその位置により東西南北を付け、○○北高、○○西高、○○東高などと改称したが、この校名の決定は四月直前になってからのことと思われる。こうして四月一日から、浜松第一高等学校は浜松北高等学校に、浜松第二高等学校は浜松西高等学校と改称された。