新制度による高校教育で注目されたのは定時制課程と通信教育課程の発足であろう。戦前にも夜間課程の中等学校(青年学校)もあったが、新しい教育制度になってさらに教育の機会均等を図り、勤労青少年の教育の充実を図ることを目指したものであった。
浜松市内における定時制課程は、昭和二十三年四月の新学制の発足とともに幾つかの高等学校に併設された。浜松工業高等学校定時制は紡織・機械・電気の三科を置き、発足時の生徒は以前にあった工業青年学校の生徒が多かったという。浜松商業学校では昭和四年から勤労青少年のための第二商業学校が併設されていたが、昭和二十三年の浜松商業高校誕生とともに、商業科の定時制課程が置かれた。浜松農業高等学校には農業科の定時制課程が出来た。こうした実業面の定時制教育とは別に、普通科の定時制も浜松第一高校に誕生した。『浜松北高百年史』によれば、二十三年九月に八十三名で出発、二十四年七月には百五十五名(内女子七名)を数えるまでになったという。定時制課程で学ぶ若者は昼間の労働で疲れていることや、一家の生計を立てている者も多く、やむを得ずの退学など、大きな困難があったようだ。これについては『新編史料編五』の三教育 史料64を参照されたい。
通信制の課程を浜松市内の高校で設けたのは浜松第一高等学校だけであったが、昭和二十三年四月の段階では教科書が整わず、授業開始は九月まで遅れたようである。ただ、教科書は国語一教科のみ、また、予算の関係で生徒の募集停止(昭和二十四年度)や労働と学習の両立の難しさ、リポート作成の困難さ、スクーリングヘの出席が出来ないなど、定時制以上の困難さが伴い、開講から十年たっても一人の卒業生も出せない状態が続いた。初めて三人の卒業生を送り出したのは昭和三十五年三月二十日であった。次の年に四人の卒業生を出したのを最後に浜松北高等学校の通信制課程は静岡城北高等学校に統合されることになった。なお、浜松北高等学校通信教育部の部報は通巻百四十号を数え、浜松北高の通信教育の全貌を余すところ無く伝えている。同校で一貫して通信教育に尽力した本間秀諦主事(教諭)の名は広く知られた。
図2-19 浜松工業高等学校定時制の教室