[学区制と入学試験]

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【総合制 小学区制 中学区制 高校入試】
 GHQの軍政部は新しく発足した高等学校について、一つの高校に幾つかの課程を設けることや一つの地域に住む生徒はそこにある高校に行かせるという方針(総合制小学区制)を持っていた。ただ、以前からあった中等学校は普通科と実業科に分かれていたので、総合制の高校をつくるとなると経費の面で出来ない相談であった。こうして昭和二十三年四月から新制高等学校がスタートしたのであったが、昭和二十三年十一月に発足した静岡県教育委員会は軍政部提案の小学区制、総合制、男女共学などを一部ではあるが新年度から取り入れることとした。そして、昭和二十四年三月十七日に高校の再配置と学区制を定めた。総合制の学校としては天竜林業高校と二俣高校を統合して二俣高校とし、そこに普通課程と農業課程を置いたのがその一例であるが、浜松市内ではこうした総合制を採用したところはなかった。男女共学についてはそれぞれの定員は決めなかった。問題は小学区制である。実業高校においては学区制は出来たが、やや広範囲で、浜松工業高校紡織科や浜松農業高校の蚕業科は全県一学区であった。普通科は名前の通りの小学区となり、浜松市内は一高・二高・市立高の三学区にした。これは市内の東部・北部・曳馬の中学校区から普通課程を選んだ者は浜松第一高校(新年度からは浜松北高)に、西部中学校区の者は浜松第二高校(新年度からは浜松西高)に、南部・中部・八幡中学校区からは浜松市立高校へ進学しなければならなくなった。郡部の中学校についても同様な学区制があり、一例を挙げると、積志中以北は浜名高校へ、北庄内中は引佐高校へ、南庄内・村櫛中などは新居高校へ進学しなければならなかった。これにより、昭和二十四年度には浜松北高校に女子が五名、浜松西高校に女子が六名、浜松市立高校には男子が二十八名入学することになり、新制高校誕生一年後に男女共学が実現した。ただ、女子を受け入れた北高や西高には女子のための家庭科室やトイレなどの施設がなかったため大きな問題となったり、狭い浜松で普通高校が一つに限定されたことには反対意見が続出した。
 これを受けて翌二十五年には浜松市立高校を家庭科だけの高校とし、普通科の浜松北高は市内の北部・曳馬・中部中学校区と浜名郡の一部、浜松西高は西部・南部・東部・八幡の各中学校区と浜名郡の一部をそれぞれ学区と定めた。これにより前年に浜松市立高校に入学した男子生徒は昭和二十五年四月に浜松北高と浜松西高に転学した。このようにしてもなお希望する学校への進学が出来ないとの不満は大きく、また、寄留や下宿などの手段を使って入学するなどの問題が多発した。これらのことから、浜松・浜名・引佐を一つの学区とする中学区制が出来るのは昭和二十七年度の一年生からのことであった。
 新制高校の発足から昭和二十四年度までは旧制中学校の生徒がそのまま新制高校に入ったので、新制中学校からの受験者は少なく、前述のように報告書による選考が行われた。新制中学校の卒業者のみの高校への入学試験は実質的には昭和二十五年度からであった。昭和二十五年度の高校入試は全県一斉の学力検査が二月二十日と二十一日に、国語・社会・数学・理科・職業・家庭・保健体育・音楽・図画工作の九教科で行われ、その結果が中学校に報告される。中学校はその結果をもとに生徒や保護者と相談して適当な高校を選択して出願となる。高校はこの成績と中学校からの報告書をもとに合否を判断した。
 浜松市立高校が家庭科だけの高校になったと記したが、これには裏があった。それは、昭和二十五年度の入学試験の要項を発表した鈴木健一県教委総務課長が昭和二十五年二月五日付『静岡新聞』に「なお、本年から下田南・沼津西・清水西・静岡城北・磐田北・浜松市立の各高等学校は「家庭科」になつたが、これは家事被服等の学科を三カ年に七単位を修めれば、他は普通科の学科を勉強するのであつて専門の課程ではない、従つて上級学校に進学するのに支障はない」と語っていることから分かる。

図2-20 男女共学となった浜松市立高校