[静岡大学誕生までの動き]

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【浜松工業専門学校 浜松工業大学期成同盟会 静岡第二師範学校 西川熊三郎 浜松大学 静岡大学 井口常雄】
 浜松工業専門学校では、工業大学昇格を目指して昭和二十二年七月一日に大学昇格準備委員会が結成されて文部大臣に対する大学昇格の陳情が行われた。次いで同年八月六日には小林静岡県知事を会長とする浜松工業大学期成同盟会が発足し、工業大学昇格への運動が行われることになった。
 静岡第二師範学校においても、昭和二十二年七月には学芸大学への昇格を目指す動きが生まれ学芸大学昇格浜師復興期成会が発足したようで、当時の新聞はそうした会の動きをしきりに報じている。そうした折、第二師範学校は昭和二十三年二月十一日に原因不明の火災により本館一棟を焼失、それ以後新校舎の復興と学芸大学昇格のための必要性を市民に大きく訴えた。この復興には西川熊三郎が多額の資金を寄付し、自ら復興委員長として資金集めに奔走した。こうして本館はなんと同年十月に再建された。西川は多くの学校をはじめ、公共機関、病院等へ巨額な私財を寄付し、これらの戦後復興に多大な貢献をした。
 両校の大学昇格への要望を受けて、浜松市議会は昭和二十三年四月に浜松工業専門学校と静岡第二師範学校を併せて浜松大学とする要望を決議した。しかし、CIE(総指令部民間情報教育部)からこれまでの大学が都市部に集中していた弊害を除くため、一府県一大学とする方針が出された。これを受けて文部省は新制国立大学の設置に関して十一条の原則を決定したが、その中で一府県一大学の実現、各都道府県には必ず教養及び教職に関する学部を置く、大学の名称は原則として都道府県名を用いる等々が記されていた。このような情勢のなか、静岡県は昭和二十三年五月になって静岡高等学校・浜松工業専門学校・静岡第一師範学校・静岡第二師範学校・静岡青年師範学校を母体とする静岡大学設置の基本方針を示すに至ったのである。こうした結果を受けて、五月二十日には五校連合大学昇格準備委員協議会が設置され、浜松の関係者は六月に入って、大学本部を浜松に設置されたいという陳情を文部省に行ったりしたが、七月三十日付をもって、『新編史料編五』の三教育 史料69「静岡大学設置申請書と文部省大学設置委員会の答申の通知」に見られるような静岡大学設置の申請が出された。その後多くの紆余曲折を経て、十二月二十一日には小林静岡県知事を会長とする静岡大学後援会が設立され、静岡大学実現のための募金活動が行われた。昭和二十四年三月に入って大学設置委員会の答申により設置が認められ、前記の史料69に見られるように五月三十一日付で文部省からの通知があり、五月三十一日に成立した国立学校設置法により昭和二十四年六月一日、文理学部(静岡市)、工学部(浜松市)、教育学部(静岡市、分校は浜松市と島田市、教場は三島市)の三学部による静岡大学が成立した。学長には東京大学第二工学部長の井口常雄が就任した。第一回の入学式は、県の東部地区は七月十五日に、西部地区は十六日に工学部で実施された。全学で入学した学生は七百三十一名、入学式の後はガイダンスを行い、授業は九月からとなった。