空襲などの被害を受けず戦後を迎えた幼稚園としては、向宿町の昭和幼稚園、浅田町の朝田幼稚園・野口町の馬込幼稚園を挙げることが出来る。昭和幼稚園は空襲の激化により昭和二十年三月に休園し、朝田幼稚園は軍の施設となるなど、終戦直前や直後も閉園を余儀なくされていたようだ。
戦後の開(再開)園として早かったのは昭和二十一年四月の赤門(新津村)、青葉(栄町)、天林寺(田町)、同八月の常盤(元城町)、同九月の松城(松城町)、同十月の青い鳥(佐藤町)の各幼稚園である。このうち、九月十六日に開園した松城幼稚園は十一月二十六日に多くの来賓を招いて復興開園式を挙行したが、加茂喜一郎園長の挨拶文が『松城幼稚園五十年史』に記されている。その一部は「…祖国ガ敗戦ノ憂目ヲ見テ道義ハ頽廃シ秩序ハ紊乱シテ再生ノ前途蓋シ容易ナラズ深憂ニ堪エマセヌガ茲ニ唯一ツノ生クル途ガアル。夫レハ純真ナル幼児ニ神ヲ畏レ人ヲ愛シ平和ヲ愛好スル国民ノ基礎教育ヲ施スコトニヨッテヤガテハ此幼児ガ成人ニ達シタ時初メテ此敗戦国ノ道義ノ標準ヲ高メ世界列国レベルニ到達シ得ルトノ信念ノ下ニ此祖国ガ救ハルルコトヲ確信シ一日モ早ク開園ヲ希ツタ…」とあり、ほかの仏教系幼稚園も神が仏に変わるものの同じ考えのもとに開(再開)園したものであろう。キリスト教系幼稚園はこの松城と市内最古の歴史を誇る常盤幼稚園の二つ、仏教系は朝田・赤門・天林寺の各幼稚園であった。翌二十二年になると、昭和・ひくま・入野(入野村)の三幼稚園、二十三年には駅南・しのはら(篠原村)の二幼稚園、二十四年には普済寺・花園(篠原村)・早出の三幼稚園、そして浜松がある程度の復興を果たした二十五年には一挙に九幼稚園が開園して幼児教育は一層の発展を遂げていくのである。この年に開園した幼稚園は、蜆塚・布橋・鴨江・平和・第一(成子)・みどりが丘・富塚・あけぼの・河輪(河輪村)の各幼稚園で、二十六年には日本文教幼稚園が開園した。ただ、農村部の幼稚園では園児の募集には苦労したようで、その様子は「『家にはお婆さんがいるしサツマでも食べさせておきゃあ一銭もかからんに、わざわざ金を出して、幼稚園にやらんでも、いいてね』と断られ殆んどの家庭がこんなありさまでした。」(『富塚学園 創立40周年』)と記されている。昭和二十二年以降に開園した幼稚園はその多くが仏教系やキリスト教系で、特色ある教育が展開されていった。
図2-23 松城幼稚園