[各種学校の盛衰]

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【英語塾 鴨江洋裁学園 建部快運 洋裁学校 ファッションショー】
 進駐軍の来日とともに英語熱は高まり、日常の英会話はもとより、道路や建物の表示など至る所で英語が使われるようになった。浜松でも進駐軍の姿を見かけるころには大小二十五カ所の寺子屋程度の英語塾(学校)が生まれ、猫も杓子も英語、英語と塾に通ったという。しかし、昭和二十五年ごろになると浜松高等英語学院のように比較的大きな英語学校が数カ所残る程度になった。これらは初等科・中等科・高等科・大学受験科などいろいろな課程を設け、なかには米人を講師とする学校もあった。また、齋藤英語塾のように特色ある授業をしていたところもあった。
 戦前の塾として数が多かったのは珠算と和裁、このうち珠算は戦後になっても数多くの塾や学校が再開した。しかし、和裁は洋裁にとって代わられた。洋裁学校は戦前にも幾つかあったが、戦後は一大ブームが起き、市内には二十余りの学校が乱立する状態となった。鴨江寺が経営する鴨江洋裁学園は昭和十九年四月に閉鎖、その建物は戦災で焼失したが、戦後一年もたたない昭和二十一年六月一日にはもう開校を迎えた。これは観音堂の再建より一年半以上も早いものであった。鴨江寺の建部快運はその著『鴨江寺復興史』の中で、「終戦を迎えて工場等に徴傭されていた若い女性、女学生などが一度に家族の人となり、そして自由の身となった。食の次は衣である。殊に若い女性には衣服は最も魅力である。」と考え、洋裁学校の早期復興に意欲を見せたのであった。昭和二十三年七月には東洋劇場で市内十五の洋裁学院生のファッションショーが開かれた。当時の新聞記事の見出しには「見事なドレスに出るは溜息」、記事の冒頭には「文化の象徴は服装からと…」など時代の先端を行くファッションショーの様子を伝えている(『新編史料編五』 七社会 史料32)。終戦直後の乱立状態から実力本位の公認校が残った背景には各種学校に関する規程が決まり、小規模なところは公認されないということもあったようだ。洋裁とともに編み物や料理などの学校も数多く出来ていった。

図2-26 鴨江洋裁学園